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「カストラート」 (そんな、おままごとみたいな……Noch einmal) (4) 作.ありす 挿絵.東宮由依
第3幕 カールの怒りと婚約指輪
ファリンと話をしていると、騒ぎをどこかで聞きつけたのかハルが、その直ぐ後に、クララが居間に飛び込んできた。
「ファリン! クノ! 怪我はなかったかい?」
「ええ、ハルさん。大丈夫です。ちょっと服を汚してしまいましたが」
「そう。聞いたよ、クノを守ってくれたんだね」
「ああ、ハル。ファリンのおかげで助かったよ。ファリンは凄いね。どこであんなナイフ裁きを覚えたんだい?」
「ハルさんに教えていただいたんですよ。旅をするなら、ある程度自分の身ぐらいは守れるようにって」
「そうなんだ。つい昔の感覚で狼に向かってっちゃったけど、ナイフ持っていないことに気が付いた時、死んじゃうかもって……」
ぱんっ! という乾いた音に続いてすごい耳鳴りがして、視界がぐらりと揺れた。
一瞬何がおきたのかわからなかった。それまで黙っていたクララが私の頬を張ったのだった。
じりじりとする頬の痛みに我に返り、クララを睨みつけた。
「な、なにすんだよっ、クララ!!」
「狼にけんか売るなんて、何考えているんだ! 自分だけじゃなくて、こんな子にまで危ない目にあわせて! 自分が何をしたのか、わかっているのかっ!!」
「けんか売ったわけじゃないよ! アイリーンが襲われてて……」
ぱんっ! と今度は反対側の頬をぶたれた。
「そんなことをいっているんじゃない! クノはもう昔のクノじゃない。か弱い女の子なんだ! どうしてそんなに自覚がないんだ。そんなだから……」
「そんなだから、エルダの方が好きになったって言うのか!」
私はひりひりする頬を撫でながらクララを睨み返し、負けじと言い返した。
アイリーンを助けるためにしたことだって言うのに、ぶたなくたっていいじゃないか!
「何を言っているんだ、クノ?」
「ふん! 私知ってるんだから! クララが服屋のエルダと浮気しているって」
「またその話か! いったい誰がそんなこと言ってるんだ! 僕は浮気なんかしていない!」
「嘘! 私に隠れて、こそこそエルダに会いに行っている癖に!」
「ぼ、僕はそんなことしていない」
「私見たんだ。昨日、クララとエルダが店の中で抱き合ってるの!」
「抱き合っている? あ、あれは違う、あれは棚の上の品物を取ろうとしたエルダがよろけて」
「そんな言い訳聞きたくない。今だっていきなり理由も聞かずに私のことぶったりして! 私が嫌いになったのなら、そう言えば!」
私は殴り返そうと振り上げたら、その手をハルにつかまれた。
「止めないでよ、ハル!」
「ローゼンシルバニウムのリングだね。婚約指輪かい? クノ」
「う。こ、これは……クララがどうしても嵌めていて欲しいって言うから」
「そう。きれいな色だね。これならクララを信じてあげても、いいんじゃないかな?」
「どう言う意味だよ?」
「ローゼンシルバニウムはね、とても不思議な金属なんだよ。知っているかい、クノ?」
「特別な金属だっていうのは知ってる。高価なことも」
「ローゼンシルバニウムは贈った人の真心を伝えるといわれている。だから大切な恋人に贈る時に使うんだ。君の指輪は綺麗な薔薇色に光るだろう。それは指輪の贈り主が、君のことをとても純粋に愛しているということなんだよ。そして贈り主が心変わりしない限り、その指輪の色は変わらない。だから、クララは浮気なんかしていないし、今だって本当に君のことが心配だったから、あんなことをしてしまったんだよ。クノ」
「……う、うん」
ふと見ると、ファリンも驚いた表情で私を見ている。突然大ゲンカを始めてしまったのだからびっくりしてるに違いない。
それに、ハルにあの優しい笑顔で諭すように止められちゃ、ケンカする訳にも行かない。
「は、離してよ、ハル」
「ああ、ごめん、クノ。痛かったかい?」
「ううん、そんなことないけど……」
クララを見ると、自分は知らないとでも言うようにそっぽを向いていた。
なんだい! いきなりぶったことぐらい、謝ったらどうなのさ!
平常心を取り戻そうと窓に目を向けると、もう日が暮れかけていることに気づいた。
「ゆ、夕食の準備をしなくちゃ」
「ああ、それなら手伝うよ。旅先で珍しい食材を仕入れてきたんだ。久しぶりに会ったんだから、夕食はみんなで一緒にどうかな?」
クララは私のほうを見ようともせずに、『やりかけの作業を片付けてくる』といって、畑へ戻っていった。
四人で囲む夕食。私は普段どおりを装いながらも、わざとクララを無視していた。
クララは何か言いたげだったけど、そんなこと私は知らない!
さっきだって、ハルたちがいなかったら、きっと取っ組み合いのけんかを初めていたに違いない。
せっかくの料理も、半分ぐらい味がわからなかったけど、それはハルのしてくれた旅の話が面白かったせいで、クララが気になるからじゃないんだから!
ハルとは積もる話もいっぱいしたけれど、クララとは一言も口をきかなかった。
それでも食事の後、ファリンを預かることをクララに言ったけど、『そう。じゃあ、そうすればいい。僕はクノの家で寝るから、寝室は僕のを使えばいいよ』と、ぶっきらぼうに言って、さっさと私の住んでいた家に行ってしまった。
ややこしい説明をしなくてすんだのは幸いだけど、もう少しぐらい何か言ってくれてもいいんじゃない?
クララの部屋をお客様用に片付けていると、ハルが『話がある』といって部屋に入ってきた。
「なぁ、クノ?」
「なあに? ハル。ファリンと一緒に、ここに泊まりたいの?」
「まじめな話なんだけど」
うん、そんなことわかってる。多分、ハルが言いたいことも。
「……別にアイリーンを助けようとしたこと、クララに褒めて貰うつもりは無いけど、理由も聞かずにぶつなんて酷いと思わないか?」
「クララは君が自己顕示欲のために、危険な目に飛び込んでいったんじゃないことぐらいは、分かっていると思うよ」
「それなら、ひとこと“大丈夫だった?”とか、“怪我はなかった?”ぐらい言えばいいじゃないか。そうだろう?」
「そうだね。でも僕も、最初に君の話を聞いた時、君が死んでいてもおかしくない状況だったことに、恐ろしい気持ちでいっぱいだったよ」
「恐ろしい……?」
「そう、もし君が死んでしまっていたら、どうしようかってね。クララも同じ気持ちだったとしたら、どう思う?」
「わからないよ。クララの気持ちなんて」
「そうだね。でも……そうだな、僕だったら、まずはクノ自身の安全を図ってほしかったって思うだろうね」
「クララは司祭だよ。 アイリーンを見殺しにしろだなんて、そんなこと言わないと思う」
「そうだね、クララの立場上、そういわざるを得ないだろうね。でもね、クララの個人的な感情としては、例えアイリーンが犠牲になったとしても、君だけは助かって欲しいと、そう願うだろうね。君はクララの大切な人なんだから」
「じゃぁ、オレのしたことは間違っていたって言うのか? ハルまで、オレが悪いって言うのか?」
「クノ、もしかしたら君を失っていたかも知れないと、一瞬でも考えてしまったクララの気持ちも、察してあげてくれないか?」
「知らないよ! オレだって、あの時凄く怖かった。もう駄目かもしれないって思ったとき……」
「“クララに二度と会えなくなる”って思わなかった?」
「そうだけど……、もう良いよ。帰って! ハルだって長旅で疲れてるんだろ!」
「クノ……」
「出てってくれ!」
ハルは諦めたようにため息をつくと、部屋を出て行った。
入れ替わるようにして、とんとん、と部屋の戸を叩く音がした。
多分ファリンが今の騒ぎを聞きつけたのだろう。みっともない姿ばかりだ。
「クノさん。入りますね」
「……あと、毛布を替えれば終わるから、もうちょっと待ってて」
「すみません。なんだか、私のせいで、クララさんを追い出すようなことに……」
「気にしないで。もともとそのつもりだったんだから」
クララの寝室は、気持ちいいほどに物が無い。
前は、いま私が使っている部屋を寝室にしていたけど、私がクララと教会で暮らすようになってからは、私がクララの寝室を使うようになり(これでも女の子なので、いろいろ身の回りのものが必要になったのだ)、クララは何も無い空き部屋だったこの部屋に、倉庫にあった古いベッドを持ち込んで、寝室にしていた。
ベッドのほかには数冊の本とペン立てが載った簡素な机に、椅子があるだけ。
衣類は私が洗濯しておいた物を、前の晩に必要な分だけを机の上に用意していたから、衣類カゴすらなかった。
お客様用の上掛けをファリンと広げて、ベッドメイクを終えると、ファリンが言った。
「ハルさんはああいっていましたけど、私、クノさんの気持ち、良くわかります。ああいう時、女の子って叱られるよりも、自分のことをいたわって欲しいんですよね」
「私は、……男だもん。今は違うけど」
「そうでしたね。ごめんなさい。でも今は姿は女の子なんですから、女の子らしく扱ってもらっても、良いんじゃないですか? だからクノさんがクララさんのこと怒る気持ち、よくわかります。女の子だったら絶対そうです。あら、私も本当は男でしたね。うふふ」
「ファリンは、自分のこと、女だと思っているの?」
「自分では普通だと思っていましたが、外の世界を知らなかった私は、そういうことには気が付きませんでした。ハルさんと旅を始めるまでは」
「それまでは、女の子として育てられたってこと?」
ファリンの表情が少し翳る。
「私は両親を知りません。物心ついた時には、大教会の奥まったところにある修道院で、孤児として育てられました。修道院には男性しかいませんでしたし、聖歌隊に入ってからも修道院の外に出ることがあっても、常に周りには修道士や司教様がついていましたから。だから、私は聖典の中でしか、女性というものを知りませんでしたし、自分がどちらの性であるかとか、特に意識していなかったのです」
「そう……なんだ」
「でも、聖歌隊の仕事が忙しくなったので、私はカストラートの儀式を済ませて、住まいを教会に移すよう、司教様に言われたのです。私は育ての親である司教様を尊敬していましたから、言うとおりにしました。そして……私は個室を与えられて、そこで……」
そこまで言うと、ファリンがうつむいて、何かをこらえるようにして両手をぎゅっと握った。
これ以上は聞いてはいけないような気がしたけれど、ファリンの生い立ちへの興味のほうが勝っていた。
やがてファリンは、ため息をひとつついて言った。
「……クノさんの村では、司祭も結婚できるんですね」
「うん、そうだよ」
「私のいた教会では、禁忌でした。司教や司祭は神に仕える神職ですから、妻を娶ってはならなかったのです」
「そうなんだ。っていうか、私も最初、そんな風に勘違いしていたんだ」
「だから、クララさんとの結婚も?」
「うん、そう。あ、ゴメン、話の腰を折って。それで?」
「ええ……。妻を娶ってはならない、神職という立場ですが、でも他人を愛してはいけないということではないのです。と言うより、神職といえども誰か人を愛したくなるのでしょう。お支えする修道士たちも同じです」
「それって、まさか……」
「同性愛は神が禁忌としています。妻を娶ることも、女性を愛することもなりません。では、男でも女でもないものはどうでしょうか?」
「どうって、まさか」
「神職といえども、人肌は恋しいのだと……言われました」
「ファリンはそれで……? そんなの納得してたの?」
ファリンは悲しそうに微笑んだ。
「私は自分を育ててくれた司教様のお言葉に、忠実でありたいと思っていました。でも……」
「でも?」
「でも、私には……」
ファリンは言葉を濁して、下を向いたままだった。
「それで教会から逃げてきたの?」
「はい。尊敬していた司教様が、私になさろうとしたこと、私のこの体についてのこと……。本当のことを知らされたとき、私は裏切られたと思ったのです。いえ、あの時の私は、自分が知らないうちに神を裏切り、罪を重ねようとしているのではないかという、恐怖すら感じたのです。それで、私はいたたまれなくなり、教会から逃げ出したのです」
自分のことを話すファリンの様子から、きっと無理やり酷いことをされたんだと思った。どんなことをされそうになったのか、どういう経緯でそんなことをされたのかは判らないけど。それが、ファリンが教会から逃れようとした原因なんだと思った。
身の上を語るファリンの表情は暗く、美しい筈の声も沈みきっていた。
私は話題を変えたほうが良いと思った。
「ハルとの旅は、楽しい?」
「え? ええ、とっても。私、ずっと教会の奥にある修道院から、外へ出ることはほとんどありませんでしたから。外に出ることができて、本当にうれしいです。見るもの聞くもの、新しいことばかりです。いろいろな人とも出会いましたし、いろいろなものも食べました。ハルさんは何でも知っていて、やさしくて、何でもできて、ハルさんには、本当に感謝しています」
「ハルのこと、好き?」
思わず、またそんな質問をしてしまった。でもファリンはにっこりとして言った。
「感謝しています。恩人ですから」
「ごめん、変な質問だったね」
そう、ファリンは表向きは女性として振舞っているけれど、本当は男だったんだよね。
だから“ハルのこと好き?”って聞かれても、困ってしまうよなぁ……。
「そうだ、ファリンは聖歌隊だったって言ったよね。今度ファリンの歌も聞かせてね」
「え、ええ。喜んで。ご期待に副えるかは判りませんけど。でも私、精一杯歌いますっ!」
「あ、そ、そんなに力まなくても」
「ご、ごめんなさい。私ったらつい……」
「ファリンは歌が大好きなんだね」
「好きと言うか……、私には歌しかありませんでしたから。でも今は、ハルさんとの旅もとても楽しいです……」
ファリンは、はにかむように答えた。
最初は、美人できれいな声で、物静かで控えめだけど芯は強い、そんな、理想の女性像みたいなものを勝手にファリンに感じていた。
けれど、ファリンも私と同じように、自分の意思では無いのに、男としての性を失ってしまった。
そして、もう元には戻れないかもしれないけれど、なんとか頑張っていこうとしているんだ。
そう思うと、ファリンとは共闘者のように思えた。
まだ出会って一日も経っていないけど、きっと親友になれると、そう思った。
<つづく>
ファリンと話をしていると、騒ぎをどこかで聞きつけたのかハルが、その直ぐ後に、クララが居間に飛び込んできた。
「ファリン! クノ! 怪我はなかったかい?」
「ええ、ハルさん。大丈夫です。ちょっと服を汚してしまいましたが」
「そう。聞いたよ、クノを守ってくれたんだね」
「ああ、ハル。ファリンのおかげで助かったよ。ファリンは凄いね。どこであんなナイフ裁きを覚えたんだい?」
「ハルさんに教えていただいたんですよ。旅をするなら、ある程度自分の身ぐらいは守れるようにって」
「そうなんだ。つい昔の感覚で狼に向かってっちゃったけど、ナイフ持っていないことに気が付いた時、死んじゃうかもって……」
ぱんっ! という乾いた音に続いてすごい耳鳴りがして、視界がぐらりと揺れた。
一瞬何がおきたのかわからなかった。それまで黙っていたクララが私の頬を張ったのだった。
じりじりとする頬の痛みに我に返り、クララを睨みつけた。
「な、なにすんだよっ、クララ!!」
「狼にけんか売るなんて、何考えているんだ! 自分だけじゃなくて、こんな子にまで危ない目にあわせて! 自分が何をしたのか、わかっているのかっ!!」
「けんか売ったわけじゃないよ! アイリーンが襲われてて……」
ぱんっ! と今度は反対側の頬をぶたれた。
「そんなことをいっているんじゃない! クノはもう昔のクノじゃない。か弱い女の子なんだ! どうしてそんなに自覚がないんだ。そんなだから……」
「そんなだから、エルダの方が好きになったって言うのか!」
私はひりひりする頬を撫でながらクララを睨み返し、負けじと言い返した。
アイリーンを助けるためにしたことだって言うのに、ぶたなくたっていいじゃないか!
「何を言っているんだ、クノ?」
「ふん! 私知ってるんだから! クララが服屋のエルダと浮気しているって」
「またその話か! いったい誰がそんなこと言ってるんだ! 僕は浮気なんかしていない!」
「嘘! 私に隠れて、こそこそエルダに会いに行っている癖に!」
「ぼ、僕はそんなことしていない」
「私見たんだ。昨日、クララとエルダが店の中で抱き合ってるの!」
「抱き合っている? あ、あれは違う、あれは棚の上の品物を取ろうとしたエルダがよろけて」
「そんな言い訳聞きたくない。今だっていきなり理由も聞かずに私のことぶったりして! 私が嫌いになったのなら、そう言えば!」
私は殴り返そうと振り上げたら、その手をハルにつかまれた。
「止めないでよ、ハル!」
「ローゼンシルバニウムのリングだね。婚約指輪かい? クノ」
「う。こ、これは……クララがどうしても嵌めていて欲しいって言うから」
「そう。きれいな色だね。これならクララを信じてあげても、いいんじゃないかな?」
「どう言う意味だよ?」
「ローゼンシルバニウムはね、とても不思議な金属なんだよ。知っているかい、クノ?」
「特別な金属だっていうのは知ってる。高価なことも」
「ローゼンシルバニウムは贈った人の真心を伝えるといわれている。だから大切な恋人に贈る時に使うんだ。君の指輪は綺麗な薔薇色に光るだろう。それは指輪の贈り主が、君のことをとても純粋に愛しているということなんだよ。そして贈り主が心変わりしない限り、その指輪の色は変わらない。だから、クララは浮気なんかしていないし、今だって本当に君のことが心配だったから、あんなことをしてしまったんだよ。クノ」
「……う、うん」
ふと見ると、ファリンも驚いた表情で私を見ている。突然大ゲンカを始めてしまったのだからびっくりしてるに違いない。
それに、ハルにあの優しい笑顔で諭すように止められちゃ、ケンカする訳にも行かない。
「は、離してよ、ハル」
「ああ、ごめん、クノ。痛かったかい?」
「ううん、そんなことないけど……」
クララを見ると、自分は知らないとでも言うようにそっぽを向いていた。
なんだい! いきなりぶったことぐらい、謝ったらどうなのさ!
平常心を取り戻そうと窓に目を向けると、もう日が暮れかけていることに気づいた。
「ゆ、夕食の準備をしなくちゃ」
「ああ、それなら手伝うよ。旅先で珍しい食材を仕入れてきたんだ。久しぶりに会ったんだから、夕食はみんなで一緒にどうかな?」
クララは私のほうを見ようともせずに、『やりかけの作業を片付けてくる』といって、畑へ戻っていった。
四人で囲む夕食。私は普段どおりを装いながらも、わざとクララを無視していた。
クララは何か言いたげだったけど、そんなこと私は知らない!
さっきだって、ハルたちがいなかったら、きっと取っ組み合いのけんかを初めていたに違いない。
せっかくの料理も、半分ぐらい味がわからなかったけど、それはハルのしてくれた旅の話が面白かったせいで、クララが気になるからじゃないんだから!
ハルとは積もる話もいっぱいしたけれど、クララとは一言も口をきかなかった。
それでも食事の後、ファリンを預かることをクララに言ったけど、『そう。じゃあ、そうすればいい。僕はクノの家で寝るから、寝室は僕のを使えばいいよ』と、ぶっきらぼうに言って、さっさと私の住んでいた家に行ってしまった。
ややこしい説明をしなくてすんだのは幸いだけど、もう少しぐらい何か言ってくれてもいいんじゃない?
クララの部屋をお客様用に片付けていると、ハルが『話がある』といって部屋に入ってきた。
「なぁ、クノ?」
「なあに? ハル。ファリンと一緒に、ここに泊まりたいの?」
「まじめな話なんだけど」
うん、そんなことわかってる。多分、ハルが言いたいことも。
「……別にアイリーンを助けようとしたこと、クララに褒めて貰うつもりは無いけど、理由も聞かずにぶつなんて酷いと思わないか?」
「クララは君が自己顕示欲のために、危険な目に飛び込んでいったんじゃないことぐらいは、分かっていると思うよ」
「それなら、ひとこと“大丈夫だった?”とか、“怪我はなかった?”ぐらい言えばいいじゃないか。そうだろう?」
「そうだね。でも僕も、最初に君の話を聞いた時、君が死んでいてもおかしくない状況だったことに、恐ろしい気持ちでいっぱいだったよ」
「恐ろしい……?」
「そう、もし君が死んでしまっていたら、どうしようかってね。クララも同じ気持ちだったとしたら、どう思う?」
「わからないよ。クララの気持ちなんて」
「そうだね。でも……そうだな、僕だったら、まずはクノ自身の安全を図ってほしかったって思うだろうね」
「クララは司祭だよ。 アイリーンを見殺しにしろだなんて、そんなこと言わないと思う」
「そうだね、クララの立場上、そういわざるを得ないだろうね。でもね、クララの個人的な感情としては、例えアイリーンが犠牲になったとしても、君だけは助かって欲しいと、そう願うだろうね。君はクララの大切な人なんだから」
「じゃぁ、オレのしたことは間違っていたって言うのか? ハルまで、オレが悪いって言うのか?」
「クノ、もしかしたら君を失っていたかも知れないと、一瞬でも考えてしまったクララの気持ちも、察してあげてくれないか?」
「知らないよ! オレだって、あの時凄く怖かった。もう駄目かもしれないって思ったとき……」
「“クララに二度と会えなくなる”って思わなかった?」
「そうだけど……、もう良いよ。帰って! ハルだって長旅で疲れてるんだろ!」
「クノ……」
「出てってくれ!」
ハルは諦めたようにため息をつくと、部屋を出て行った。
入れ替わるようにして、とんとん、と部屋の戸を叩く音がした。
多分ファリンが今の騒ぎを聞きつけたのだろう。みっともない姿ばかりだ。
「クノさん。入りますね」
「……あと、毛布を替えれば終わるから、もうちょっと待ってて」
「すみません。なんだか、私のせいで、クララさんを追い出すようなことに……」
「気にしないで。もともとそのつもりだったんだから」
クララの寝室は、気持ちいいほどに物が無い。
前は、いま私が使っている部屋を寝室にしていたけど、私がクララと教会で暮らすようになってからは、私がクララの寝室を使うようになり(これでも女の子なので、いろいろ身の回りのものが必要になったのだ)、クララは何も無い空き部屋だったこの部屋に、倉庫にあった古いベッドを持ち込んで、寝室にしていた。
ベッドのほかには数冊の本とペン立てが載った簡素な机に、椅子があるだけ。
衣類は私が洗濯しておいた物を、前の晩に必要な分だけを机の上に用意していたから、衣類カゴすらなかった。
お客様用の上掛けをファリンと広げて、ベッドメイクを終えると、ファリンが言った。
「ハルさんはああいっていましたけど、私、クノさんの気持ち、良くわかります。ああいう時、女の子って叱られるよりも、自分のことをいたわって欲しいんですよね」
「私は、……男だもん。今は違うけど」
「そうでしたね。ごめんなさい。でも今は姿は女の子なんですから、女の子らしく扱ってもらっても、良いんじゃないですか? だからクノさんがクララさんのこと怒る気持ち、よくわかります。女の子だったら絶対そうです。あら、私も本当は男でしたね。うふふ」
「ファリンは、自分のこと、女だと思っているの?」
「自分では普通だと思っていましたが、外の世界を知らなかった私は、そういうことには気が付きませんでした。ハルさんと旅を始めるまでは」
「それまでは、女の子として育てられたってこと?」
ファリンの表情が少し翳る。
「私は両親を知りません。物心ついた時には、大教会の奥まったところにある修道院で、孤児として育てられました。修道院には男性しかいませんでしたし、聖歌隊に入ってからも修道院の外に出ることがあっても、常に周りには修道士や司教様がついていましたから。だから、私は聖典の中でしか、女性というものを知りませんでしたし、自分がどちらの性であるかとか、特に意識していなかったのです」
「そう……なんだ」
「でも、聖歌隊の仕事が忙しくなったので、私はカストラートの儀式を済ませて、住まいを教会に移すよう、司教様に言われたのです。私は育ての親である司教様を尊敬していましたから、言うとおりにしました。そして……私は個室を与えられて、そこで……」
そこまで言うと、ファリンがうつむいて、何かをこらえるようにして両手をぎゅっと握った。
これ以上は聞いてはいけないような気がしたけれど、ファリンの生い立ちへの興味のほうが勝っていた。
やがてファリンは、ため息をひとつついて言った。
「……クノさんの村では、司祭も結婚できるんですね」
「うん、そうだよ」
「私のいた教会では、禁忌でした。司教や司祭は神に仕える神職ですから、妻を娶ってはならなかったのです」
「そうなんだ。っていうか、私も最初、そんな風に勘違いしていたんだ」
「だから、クララさんとの結婚も?」
「うん、そう。あ、ゴメン、話の腰を折って。それで?」
「ええ……。妻を娶ってはならない、神職という立場ですが、でも他人を愛してはいけないということではないのです。と言うより、神職といえども誰か人を愛したくなるのでしょう。お支えする修道士たちも同じです」
「それって、まさか……」
「同性愛は神が禁忌としています。妻を娶ることも、女性を愛することもなりません。では、男でも女でもないものはどうでしょうか?」
「どうって、まさか」
「神職といえども、人肌は恋しいのだと……言われました」
「ファリンはそれで……? そんなの納得してたの?」
ファリンは悲しそうに微笑んだ。
「私は自分を育ててくれた司教様のお言葉に、忠実でありたいと思っていました。でも……」
「でも?」
「でも、私には……」
ファリンは言葉を濁して、下を向いたままだった。
「それで教会から逃げてきたの?」
「はい。尊敬していた司教様が、私になさろうとしたこと、私のこの体についてのこと……。本当のことを知らされたとき、私は裏切られたと思ったのです。いえ、あの時の私は、自分が知らないうちに神を裏切り、罪を重ねようとしているのではないかという、恐怖すら感じたのです。それで、私はいたたまれなくなり、教会から逃げ出したのです」
自分のことを話すファリンの様子から、きっと無理やり酷いことをされたんだと思った。どんなことをされそうになったのか、どういう経緯でそんなことをされたのかは判らないけど。それが、ファリンが教会から逃れようとした原因なんだと思った。
身の上を語るファリンの表情は暗く、美しい筈の声も沈みきっていた。
私は話題を変えたほうが良いと思った。
「ハルとの旅は、楽しい?」
「え? ええ、とっても。私、ずっと教会の奥にある修道院から、外へ出ることはほとんどありませんでしたから。外に出ることができて、本当にうれしいです。見るもの聞くもの、新しいことばかりです。いろいろな人とも出会いましたし、いろいろなものも食べました。ハルさんは何でも知っていて、やさしくて、何でもできて、ハルさんには、本当に感謝しています」
「ハルのこと、好き?」
思わず、またそんな質問をしてしまった。でもファリンはにっこりとして言った。
「感謝しています。恩人ですから」
「ごめん、変な質問だったね」
そう、ファリンは表向きは女性として振舞っているけれど、本当は男だったんだよね。
だから“ハルのこと好き?”って聞かれても、困ってしまうよなぁ……。
「そうだ、ファリンは聖歌隊だったって言ったよね。今度ファリンの歌も聞かせてね」
「え、ええ。喜んで。ご期待に副えるかは判りませんけど。でも私、精一杯歌いますっ!」
「あ、そ、そんなに力まなくても」
「ご、ごめんなさい。私ったらつい……」
「ファリンは歌が大好きなんだね」
「好きと言うか……、私には歌しかありませんでしたから。でも今は、ハルさんとの旅もとても楽しいです……」
ファリンは、はにかむように答えた。
最初は、美人できれいな声で、物静かで控えめだけど芯は強い、そんな、理想の女性像みたいなものを勝手にファリンに感じていた。
けれど、ファリンも私と同じように、自分の意思では無いのに、男としての性を失ってしまった。
そして、もう元には戻れないかもしれないけれど、なんとか頑張っていこうとしているんだ。
そう思うと、ファリンとは共闘者のように思えた。
まだ出会って一日も経っていないけど、きっと親友になれると、そう思った。
<つづく>