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いつだって僕らは 2-12 by 猫野 丸太丸
第二章
12.
TS薬ってなんだろう。マニアックな話を和久といっしょに考えたことがある。TS薬とは、飲むとTSする薬、である。飲み薬なのだ……。貼り薬や座薬だったらギャグだと思う。
飲んだらどうなるか。目の前の女の子と入れ替わるとか、魂が抜けて他人に憑依できるようになる場合は、薬以前にまず魂ってものが存在すると信じなければいけない。
宗教とかで信じられている魂は科学的には証明されていない。でも人間が本当に魂を持っているらば、魂だけが切り離されて肉体を出入りすることができるかもしれない。魂によるTSだ。むしろ魂さえあれば、TS薬のほうは魂分離のきっかけになってくれさえすればいい。電撃で入れ替わる※とか、入れ替わりのきっかけはただの強い衝撃なんだし、いっそ電撃的な味の唐辛子玉でだって魂のTSはできるかもしれない?
「人間をコンピューターみたいなものだと考えて、入れ替わり・憑依をソフトのインストールだって考えることもできるがな」
「その場合は、頭にかぶるタイプの機械とかイヤーマッフル※とかが似合いそうだね」
「そうだな。機械なら電気信号を使った脳の書き換えだ。でももしもTS薬ならば、入れ替わりや憑依で移動するのは魂だ。入れ替わりや憑依ができるTS薬がもしもあるならば、死後の転生で女に生まれ変わりだってあるかもしれない」
「ロマンチックだね」
和久はうなずいた。僕は知っている。こういうときの和久は本気でTSを信じている。ある意味では山下と同じくらい、本物のTS好きなのが和久だ。わざわざ転生の話を出したのは、この人生でたとえ女の子になれなかったとしても、死後にこそチャンスがある! 来世では女になろうという強い覚悟なのだ。
ではTS薬で変身する場合はどうか。入れ替わりや憑依と違って、現実世界で男性が女性になるときに飲める薬は現実にあって、病院でもらうことすらできる。女性ホルモンである。
女性ホルモンを飲んだり注射したりすると、男の体は反応する。ひげが薄くなり、皮下脂肪がつき、乳房もちょっとは大きくなる。体が女性に近づくのだ。
だから女性ホルモンは、変身するTS薬と言えないこともない。
ただしホルモンによる変態は不完全である。とくに第二次性徴を終わった男がホルモンを飲んだ場合は、声は高くならないから発声練習が必要、すね毛は減らないからちゃんと処理しなければいけない。さすがに若ハゲ防止にはなるけれど、髪の毛が伸びる速度は変わらない。胸も、大きさと形を望むなら外科手術が必要だろう。
TSフィクションに出てくるTS薬は、そこが違う。顔も胸も骨格も、生まれつき女の子だったみたいに変化する。なにより遺伝子・染色体にこだわる人が読んで楽しいように――現実の性転換では染色体が変化しないのに――、TS薬は染色体をXY型からXX型に変化させる。
子供が生まれることもよく強調される。
変身して、恋愛して、とうとう子供が生まれました! TS薬は、完全な変身薬である。
女性化するとき、ホルモン剤はすごく長い間飲み続けなければならない。一年とか、二年とか、副作用に耐えながら体を変えていく面倒な薬である。一方TS薬は効き目が早い。一ヶ月? 一週間? もしかしたら、飲んだ瞬間変化できるかもしれない。飲んだと同時に体が変わるのだとしたら科学的に(質量保存の法則、だっけか)おかしいよってツッコミが入るけれど。とにかくTS薬は効き目が極端である。
三つめ、TS薬には理想や願望がすごく入っている。さっきも言ったけれど、すね毛や腕の毛はお手入れしないと無くならないものだ。現実の女性だって毛深い人は剃ったり脱毛したりしているのだ。それなのにTS薬は勝手に手足を脱毛してくれる。現実の女性がダイエットで理想のプロポーションを手に入れているのに、TS薬は勝手にダイエットしてくれる。なにより顔が自動的に美人になるなんて、変身する人に都合がよすぎるだろう。
「まぁ、現実の性別適合で美女になれる人たちだっているけどね」
インターネット検索で出てくる本当に変身した外国人の画像って、完璧に美女、という感じの見た目が多い。けれどそれは、もとから美人の素質があったか整形手術をいっぱいしたか、お化粧が上手か、それとも外国人顔だから男女差が分かりづらいのかもしれないと和久は言っていた。それに対して特殊スキルも技術も要らず、日常を生きる僕たちが女性になれる。それがTS薬だろう。
変身するTS薬は非現実的なだけじゃない。完璧すぎ、極端すぎ、願望が叶いすぎの薬なのだ。
だからその日、僕が携帯電話で和久からTS薬の報告を受けたとき、僕はとっさに
「入れ替わりか憑依か変身か?」
と打ち込んで送信ボタンを押したのだ。携帯電話の画面はキーの音とともに、おなじ趣味の者にしか分からないTS専門用語を表示する。
「おい、どうした」
しまった、勘のよい父さんがもう気づいた。顔をあげると、父さんは遠くから不審そうな視線を僕に向けている。僕は携帯電話を閉じた。わざとつまらなそうな顔で山下に声をかける。
「じゃ、またあとで!」
山下といえば驚いているのか反応が鈍く、ロボットみたいにうなずいた。あえて無視して、僕は父を引っぱって急いで家に帰った。
自室で、部屋を常夜灯だけにしてベッドにもぐりこんだ。もぐりこんだらすぐに父さんが扉を開けてきた。しかし生返事で答える。まずは携帯電話を、充電コードをつないで消えないようにしてから開いた。
光る画面は、僕が帰宅するまでに篠塚と山下からのメールの数ですごいことになっていた。順番に読もうとするけれど、メールの内容が興奮して乱れていて話の流れがよく分からない。
枕の上で頭を落ちつかせて、僕は数少ない和久の返事から読んだ。要約するとこういうことだ。TS薬を見つけた、買って帰りたい。すぐ帰国する、と。
僕の質問に対する返事は「たぶん変身 細かいことは分からない」と。猛烈にどきどきすると同時に醒めた気分もある。なんだよ、変身かよ。いちばん非現実的な薬じゃないか。
TS薬だなんて言ってもよく効くホルモン剤、ただし副作用も激烈ってところかもしれない。山下に勧めるのは気後れがする、和久自身は飲むのだろうか。わざわざ海外に買いに行ったのだし、飲むかもしれないな。いろいろな考えが頭に浮かんだ。
「おい! なんで寝ているんだ!」
父さんがしつこく呼ぶので我に返った。
「じゃあ夕御飯はいらないのか!」
「食べるよ」
僕は部屋から抜け出した。父さんは機嫌を悪くすると、説明を聞かずにはおさまらない。しかたなく、僕はテーブルに携帯電話を置いて話した。
「海外留学していた友達が帰ってくるんだよ。まえに餃子を食べに来たよね?」
「あの雰囲気が心配な子か」
「その子には今日学校で会っただろ? いちばん背の高いやつだよ」
僕は和久のメールの、帰国すると書かれた部分だけをわざと表示させて見せた。記憶が不たしかなのか、父さんは考えこんでしまう。
早く自分も質問攻めに加わりたいと思っていたのに面倒くさいなぁ、と思っていたら、この会話がひょうたんから駒、だった。
「仲のいい友達なんだろう。日曜日に着くのなら、空港に迎えに行ってあげるといい」
僕が驚いて見つめると、父さんはにやりと笑ってうなずいたのだった。
成田空港は、遠い。電車に乗って東京の新橋に行って、さらに電車を乗り継いで成田まで行かないといけない、僕らのほうまで大旅行気分だ。でも父さんが交通費を援助してくれるという超ラッキーのせいもあって、僕はうきうきとした気分で日曜早朝の列車に乗った。
その日は天気が良く、大きな窓は初夏の日差しを車内に取りこんでいた。篠塚は四人掛けの席を確保して、さっそく甘いお菓子の袋を開けた。ひざの上でスナック菓子がバニラのにおいをただよわせる……。その白いかけらを、横から山下の指がやわらかくつまんだ。銀の袋から出てくる手の甲に、僕の目はくぎづけになった。
山下は夏らしい青いブラウスを着ていた。スカートはさすがに短くなかったけれど、生足のすねが見えていた。僕の視線はゆっくりとあがる。清楚な胸もとに、陰ができている……。胸が、ある。小さいけれど。
山下は胸にはこだわっていなかったから、人前でパッドを入れたりなんてしなかったはずだ。今日の装いは気合いが違うのかもしれない。だってもしも万が一、和久が持ってくるTS薬が本物だったら、山下の胸だって本物が手に入るかもしれないのだ。山下の胸が大きくなったら、クラスの連中なんてひっくり返って気絶するだろう?

挿絵:シガハナコ
ふんわりとした胸が生えた山下。身をよじって胸を隠す山下。見つめる男子どもに
「もー、エッチー。見ちゃだめだよー」
と抗議する山下……。
「かわいい」
「えっ!?」
僕は口を押さえた。声を出したせいで、見つめていたのを山下本人に気づかれたかもしれない。「かわいい」だなんて、口に出したのは生まれてはじめてだ。あわてて視線をそらすと、山下もあわせて窓の方に顔を向けた。
「……ほら、飛行機が見えるよ。和久くんが乗っているかもしれないね」
「あ、あの向きは羽田行きだろ! でもさぁ、留学して二ヶ月ですぐ帰ってくるなんて、和久も身軽だよ」
「身軽なんてレベルじゃねぇって。同じ国にひと月もいなかったらしいからな」
篠塚の指摘に僕はうなずいた。留学と称して英語の通じる各国を転校して回った和久。その理由は決まっている、山下のためだ。世界歴訪を許してくれた親もすごいが、確証のない旅を実行できた和久もすごい。
そして本当にTS薬を見つけたんだとしたら……。また妄想がふくらみそうになったところで山下が言った。
「和久くんって最強だよね! これで僕たち四人、女の子になれるんだから」
「あれ……、四人? TS薬って、なん粒あるんだっけ? あれ?」
もののはずみで質問してから、うっかり自分で驚きの声をあげてしまった。考えたら和久に質問するのを忘れていた。僕たちは「何人」変身できるのだろうと、電車の席上ながら大騒ぎになった。
「そうだよ、何人ぶんあるんだよ、いったい?」
「ひとつってことはないと思うよ、和久くんが自分で飲むのもあるだろうから」
「携帯で訊いてみよう、って、あいつがいま飛行機内だからだめか!」
和久のことだから、ちゃんと四人ぶん用意してくれているだろう。しかしもしそうだとしても新しい疑問が浮かぶ。
薬は、本当に四人分使うのか。僕は、僕自身はTS薬を飲むのだろうか?
またこっそり、山下の髪が朝日を反射しているのを眺めてしまう。きれいだ。そして自分の首筋に手を回して、短い髪をなでてみた。そのまま引っぱって前に持ってきて、自分の毛先をたしかめられたら。
僕は髪を伸ばして、自分の髪のつやを愛でるだろうか?
註
電撃で入れ替わる:テレビドラマ『放課後』など、多数。
イヤーマッフル:テレビアニメ『うる星やつら』第47話「イヤーマッフルに御用心!」
<つづく>
12.
TS薬ってなんだろう。マニアックな話を和久といっしょに考えたことがある。TS薬とは、飲むとTSする薬、である。飲み薬なのだ……。貼り薬や座薬だったらギャグだと思う。
飲んだらどうなるか。目の前の女の子と入れ替わるとか、魂が抜けて他人に憑依できるようになる場合は、薬以前にまず魂ってものが存在すると信じなければいけない。
宗教とかで信じられている魂は科学的には証明されていない。でも人間が本当に魂を持っているらば、魂だけが切り離されて肉体を出入りすることができるかもしれない。魂によるTSだ。むしろ魂さえあれば、TS薬のほうは魂分離のきっかけになってくれさえすればいい。電撃で入れ替わる※とか、入れ替わりのきっかけはただの強い衝撃なんだし、いっそ電撃的な味の唐辛子玉でだって魂のTSはできるかもしれない?
「人間をコンピューターみたいなものだと考えて、入れ替わり・憑依をソフトのインストールだって考えることもできるがな」
「その場合は、頭にかぶるタイプの機械とかイヤーマッフル※とかが似合いそうだね」
「そうだな。機械なら電気信号を使った脳の書き換えだ。でももしもTS薬ならば、入れ替わりや憑依で移動するのは魂だ。入れ替わりや憑依ができるTS薬がもしもあるならば、死後の転生で女に生まれ変わりだってあるかもしれない」
「ロマンチックだね」
和久はうなずいた。僕は知っている。こういうときの和久は本気でTSを信じている。ある意味では山下と同じくらい、本物のTS好きなのが和久だ。わざわざ転生の話を出したのは、この人生でたとえ女の子になれなかったとしても、死後にこそチャンスがある! 来世では女になろうという強い覚悟なのだ。
ではTS薬で変身する場合はどうか。入れ替わりや憑依と違って、現実世界で男性が女性になるときに飲める薬は現実にあって、病院でもらうことすらできる。女性ホルモンである。
女性ホルモンを飲んだり注射したりすると、男の体は反応する。ひげが薄くなり、皮下脂肪がつき、乳房もちょっとは大きくなる。体が女性に近づくのだ。
だから女性ホルモンは、変身するTS薬と言えないこともない。
ただしホルモンによる変態は不完全である。とくに第二次性徴を終わった男がホルモンを飲んだ場合は、声は高くならないから発声練習が必要、すね毛は減らないからちゃんと処理しなければいけない。さすがに若ハゲ防止にはなるけれど、髪の毛が伸びる速度は変わらない。胸も、大きさと形を望むなら外科手術が必要だろう。
TSフィクションに出てくるTS薬は、そこが違う。顔も胸も骨格も、生まれつき女の子だったみたいに変化する。なにより遺伝子・染色体にこだわる人が読んで楽しいように――現実の性転換では染色体が変化しないのに――、TS薬は染色体をXY型からXX型に変化させる。
子供が生まれることもよく強調される。
変身して、恋愛して、とうとう子供が生まれました! TS薬は、完全な変身薬である。
女性化するとき、ホルモン剤はすごく長い間飲み続けなければならない。一年とか、二年とか、副作用に耐えながら体を変えていく面倒な薬である。一方TS薬は効き目が早い。一ヶ月? 一週間? もしかしたら、飲んだ瞬間変化できるかもしれない。飲んだと同時に体が変わるのだとしたら科学的に(質量保存の法則、だっけか)おかしいよってツッコミが入るけれど。とにかくTS薬は効き目が極端である。
三つめ、TS薬には理想や願望がすごく入っている。さっきも言ったけれど、すね毛や腕の毛はお手入れしないと無くならないものだ。現実の女性だって毛深い人は剃ったり脱毛したりしているのだ。それなのにTS薬は勝手に手足を脱毛してくれる。現実の女性がダイエットで理想のプロポーションを手に入れているのに、TS薬は勝手にダイエットしてくれる。なにより顔が自動的に美人になるなんて、変身する人に都合がよすぎるだろう。
「まぁ、現実の性別適合で美女になれる人たちだっているけどね」
インターネット検索で出てくる本当に変身した外国人の画像って、完璧に美女、という感じの見た目が多い。けれどそれは、もとから美人の素質があったか整形手術をいっぱいしたか、お化粧が上手か、それとも外国人顔だから男女差が分かりづらいのかもしれないと和久は言っていた。それに対して特殊スキルも技術も要らず、日常を生きる僕たちが女性になれる。それがTS薬だろう。
変身するTS薬は非現実的なだけじゃない。完璧すぎ、極端すぎ、願望が叶いすぎの薬なのだ。
だからその日、僕が携帯電話で和久からTS薬の報告を受けたとき、僕はとっさに
「入れ替わりか憑依か変身か?」
と打ち込んで送信ボタンを押したのだ。携帯電話の画面はキーの音とともに、おなじ趣味の者にしか分からないTS専門用語を表示する。
「おい、どうした」
しまった、勘のよい父さんがもう気づいた。顔をあげると、父さんは遠くから不審そうな視線を僕に向けている。僕は携帯電話を閉じた。わざとつまらなそうな顔で山下に声をかける。
「じゃ、またあとで!」
山下といえば驚いているのか反応が鈍く、ロボットみたいにうなずいた。あえて無視して、僕は父を引っぱって急いで家に帰った。
自室で、部屋を常夜灯だけにしてベッドにもぐりこんだ。もぐりこんだらすぐに父さんが扉を開けてきた。しかし生返事で答える。まずは携帯電話を、充電コードをつないで消えないようにしてから開いた。
光る画面は、僕が帰宅するまでに篠塚と山下からのメールの数ですごいことになっていた。順番に読もうとするけれど、メールの内容が興奮して乱れていて話の流れがよく分からない。
枕の上で頭を落ちつかせて、僕は数少ない和久の返事から読んだ。要約するとこういうことだ。TS薬を見つけた、買って帰りたい。すぐ帰国する、と。
僕の質問に対する返事は「たぶん変身 細かいことは分からない」と。猛烈にどきどきすると同時に醒めた気分もある。なんだよ、変身かよ。いちばん非現実的な薬じゃないか。
TS薬だなんて言ってもよく効くホルモン剤、ただし副作用も激烈ってところかもしれない。山下に勧めるのは気後れがする、和久自身は飲むのだろうか。わざわざ海外に買いに行ったのだし、飲むかもしれないな。いろいろな考えが頭に浮かんだ。
「おい! なんで寝ているんだ!」
父さんがしつこく呼ぶので我に返った。
「じゃあ夕御飯はいらないのか!」
「食べるよ」
僕は部屋から抜け出した。父さんは機嫌を悪くすると、説明を聞かずにはおさまらない。しかたなく、僕はテーブルに携帯電話を置いて話した。
「海外留学していた友達が帰ってくるんだよ。まえに餃子を食べに来たよね?」
「あの雰囲気が心配な子か」
「その子には今日学校で会っただろ? いちばん背の高いやつだよ」
僕は和久のメールの、帰国すると書かれた部分だけをわざと表示させて見せた。記憶が不たしかなのか、父さんは考えこんでしまう。
早く自分も質問攻めに加わりたいと思っていたのに面倒くさいなぁ、と思っていたら、この会話がひょうたんから駒、だった。
「仲のいい友達なんだろう。日曜日に着くのなら、空港に迎えに行ってあげるといい」
僕が驚いて見つめると、父さんはにやりと笑ってうなずいたのだった。
成田空港は、遠い。電車に乗って東京の新橋に行って、さらに電車を乗り継いで成田まで行かないといけない、僕らのほうまで大旅行気分だ。でも父さんが交通費を援助してくれるという超ラッキーのせいもあって、僕はうきうきとした気分で日曜早朝の列車に乗った。
その日は天気が良く、大きな窓は初夏の日差しを車内に取りこんでいた。篠塚は四人掛けの席を確保して、さっそく甘いお菓子の袋を開けた。ひざの上でスナック菓子がバニラのにおいをただよわせる……。その白いかけらを、横から山下の指がやわらかくつまんだ。銀の袋から出てくる手の甲に、僕の目はくぎづけになった。
山下は夏らしい青いブラウスを着ていた。スカートはさすがに短くなかったけれど、生足のすねが見えていた。僕の視線はゆっくりとあがる。清楚な胸もとに、陰ができている……。胸が、ある。小さいけれど。
山下は胸にはこだわっていなかったから、人前でパッドを入れたりなんてしなかったはずだ。今日の装いは気合いが違うのかもしれない。だってもしも万が一、和久が持ってくるTS薬が本物だったら、山下の胸だって本物が手に入るかもしれないのだ。山下の胸が大きくなったら、クラスの連中なんてひっくり返って気絶するだろう?

挿絵:シガハナコ
ふんわりとした胸が生えた山下。身をよじって胸を隠す山下。見つめる男子どもに
「もー、エッチー。見ちゃだめだよー」
と抗議する山下……。
「かわいい」
「えっ!?」
僕は口を押さえた。声を出したせいで、見つめていたのを山下本人に気づかれたかもしれない。「かわいい」だなんて、口に出したのは生まれてはじめてだ。あわてて視線をそらすと、山下もあわせて窓の方に顔を向けた。
「……ほら、飛行機が見えるよ。和久くんが乗っているかもしれないね」
「あ、あの向きは羽田行きだろ! でもさぁ、留学して二ヶ月ですぐ帰ってくるなんて、和久も身軽だよ」
「身軽なんてレベルじゃねぇって。同じ国にひと月もいなかったらしいからな」
篠塚の指摘に僕はうなずいた。留学と称して英語の通じる各国を転校して回った和久。その理由は決まっている、山下のためだ。世界歴訪を許してくれた親もすごいが、確証のない旅を実行できた和久もすごい。
そして本当にTS薬を見つけたんだとしたら……。また妄想がふくらみそうになったところで山下が言った。
「和久くんって最強だよね! これで僕たち四人、女の子になれるんだから」
「あれ……、四人? TS薬って、なん粒あるんだっけ? あれ?」
もののはずみで質問してから、うっかり自分で驚きの声をあげてしまった。考えたら和久に質問するのを忘れていた。僕たちは「何人」変身できるのだろうと、電車の席上ながら大騒ぎになった。
「そうだよ、何人ぶんあるんだよ、いったい?」
「ひとつってことはないと思うよ、和久くんが自分で飲むのもあるだろうから」
「携帯で訊いてみよう、って、あいつがいま飛行機内だからだめか!」
和久のことだから、ちゃんと四人ぶん用意してくれているだろう。しかしもしそうだとしても新しい疑問が浮かぶ。
薬は、本当に四人分使うのか。僕は、僕自身はTS薬を飲むのだろうか?
またこっそり、山下の髪が朝日を反射しているのを眺めてしまう。きれいだ。そして自分の首筋に手を回して、短い髪をなでてみた。そのまま引っぱって前に持ってきて、自分の毛先をたしかめられたら。
僕は髪を伸ばして、自分の髪のつやを愛でるだろうか?
註
電撃で入れ替わる:テレビドラマ『放課後』など、多数。
イヤーマッフル:テレビアニメ『うる星やつら』第47話「イヤーマッフルに御用心!」
<つづく>
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