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2800万ヒット記念 エデンの園(1)~(4) by ありす
「エデンの園」 by ありす
(1)-------------------------------------------------------
「♪俺ら宇宙~の、俺ら~宇宙~のぉ、俺ら宇宙のメンテ屋さんっ♪」
俺は鼻歌交じりに、EVA作業をしていた。
ここはL4(第4ラグランジュポイント)に浮かぶ、スペースコロニー、“エデン”。
俺はその“エデン”のメンテナンス要員として働いている、しがない技術屋だ。
行きたくは無かったが、大学に通ってEVA技術員の資格を取り、親の仕事を引き継いで、いっぱしの技術屋稼業なんかをしている。
いつ太陽フレア爆発や、宇宙塵との衝突に襲われるかも知れない危険なコロニーでのEVA作業の殆どが、今ではメンテナンスロボットが担当しているが、微妙な調整だとか複雑に入り組んだ場所での作業となると、まだまだ生身の人間の手が必要だった。
だが俺にとっては、もうすっかり慣れた日常の作業のひとつに過ぎない。
それにこうして、“エデン”の外殻から出て、バイザー越しとはいえ、さえぎるものの何一つ無い、星々の瞬きを見るのも悪くない。
「……って、宇宙じゃ星は瞬いたりはしない。何だあれは?」
俺はそう呟いて、明滅する光点に向かおうとしたそのとき、突然視界が真っ暗になって、何者かに襲われた。
俺は無線のプレトークスイッチを押して、助けを呼ぼうとした。
だが雑音ばかりがなり立てるレシーバーからは、いつものとぼけた調子のコントローラーからの応答は無く、俺を襲ってきた何かと揉みあっているうちに背中に激痛を感じ、そのまま気を失ってしまった。
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「エデンの園」
イラスト : もりや あこ
文 : ありす
あむぁいおかし製作所 (C)2014
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「ここは……、どこだ?」
「お目覚めですか? イヴさん」
ぼやけた視界がだんだんとはっきりとしていき、目の前に白衣を着た男が話しかけていることがわかった。
「ここは、どこですか?」
確か、俺は何者かに襲われて……どうやら耳までおかしいらしい。
自分の声がずいぶんと甲高く、別人のようだ。
それに体中がだるくて……、なんだかずいぶんと長い間眠っていたような感じがする。
「ここは、病院のベッドの上ですよ。僕はあなたの主治医です」
「主治医?」
「自分が誰だか、判りますか? イヴさん」
「俺は……イヴなんて名前じゃない。俺はショー……あれ、なんだっけ?」
「無理に思い出そうとしなくていいですよ。あなたは長い間眠ったままだったのですから」
「そうだ! 俺はEVA作業中に、何者かに襲われて……」
「どうやら、ある程度の記憶は残っているようですね。これなら希望が持てます」
「希望?」
俺は医者の言葉に不自然さを感じながらも、少しずつ戻りつつある体の感覚を頼りに、体を起こそうとした。
「あ、まだ無理をしてはいけません」
「いや、手伝ってくれ。体を起こしたいんだ」
医者は俺の背中を支えて、上半身を起こすのを手伝ってくれた。
だがその時、俺は自分の体がまったく違うものになっていることに、ようやく気づいた。
「な、なんだこれは、俺の体……、胸が膨らんで、それにこの手! どうなっているんだ!」
「あなたの体は、宇宙線に長い間晒されていて損傷が激しかったので、あなたの遺伝情報を元に、肉体を再生しました」
「肉体の“再生”だって?」
「ええ、でも脳だけは元のままなので、体に違和感があるかもしれませんが、リハビリをすれば、直ぐに慣れますよ」
「直ぐに慣れるって……、この体、まるで女みたいな……」
「すみません。男性の体で再生することが出来なかったので、体は女性体です」
「な、なんだって! それじゃこの、胸が膨らんでるとか、声が甲高いのも……」
そう言いかけて、俺は入院患者が着る様な服のズボンの部分に手を突っ込んだ。
「な、無い! 俺のジュニアが……!」
本当ならそこにある筈の、握りなれた男のシンボルがなく、代わりに股間に刻まれた肉の割れ目が……。
「あ、あのう……、僕もいるんですが」
俺の背中を支えたままの医者が、顔をそらしながら言った。
それを聞いて初めて俺は、自分がかなりキワドイことをしていることに気がついた。
少なくとも俺のこの体は女性のもので、目の前にいるのは男性で……。
俺は急に恥ずかしくなって、服の中から手を抜いた。
「あ、いや、見ていませんよ。いえ、診察のときに全部見ていますが……いや、今のは失言です。忘れてください」
医者は弁解したが、医者ならば患者の体を診るのはそれが仕事だから、非難されるいわれは無い。それは頭ではわかっているんだが、自分の知らない自分を、しかも女の体になってしまっている自分の体を見られるのは、なんだかとても恥ずかしかった。
「元には、戻せないんですか? その、男の体に」
「すみません。残念ながら、あなたの体がどうであったか、DNA解析だけでは判らないんです。それに、ここの施設では、男性の体を作るのは難しくて……。それで我慢してください」
「我慢してくださいって……」
すまなそうに言う医者に、俺はそれ以上強く言えなかった。
それに体を再生したとか言っていたが、それほどの損傷を受けた体ならば、俺はたぶんその時に一度死んでしまったのだろう。
それをここまでにしてくれて、しかも俺は意識を取り戻した。
彼はいわば、俺の命の恩人といえる。
「助けてくださったことには、感謝します。俺は、やっぱり一度死んだんですよね?」
「ええ、あなたを蘇生できたのは、かなり奇跡に近いです。でも良かった。生き返ってくれて」
「そうですか、重ねて御礼を言います、ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた。
「いえ、医者として当然のことです。慣れない体では色々と不都合もあるでしょうが、今度こそきちんとサポートしますから、がんばってください」
『今度こそ……』? 医者の言葉にちょっと俺は引っかかったが、それよりも次第にはっきりとしていく五感を通じて、文字通り生まれ変わった新しい世界の感覚に、俺は戸惑っていた。
(2)-------------------------------------------------------
昼とも夜ともつかない時刻。薄暗い部屋の中で、目が覚めた。
昨日の出来事が、まだよく頭に入っていない。
俺は一度死んで、女の体で生き返った。
鏡で確かめてみたが、記憶にある自分の姿とは似ても似つかない、少女の姿だった。
これが自分の姿などとは、到底信じられなかった。
記憶もまだ不完全で、自分が何者であったのかも、まだあまりよく思い出せない。
体もまだ思うようには動かせない。
昨日何度も練習して、なんとかベッドから上半身を起こすことは出来るようになった。
だが起き上がったところで、何からすればいいのかよくわからない。
自分は一体誰なのか? どうしてこんなところにいるのか?
これからいったい、何をすればいいのか……
途方にくれていると、部屋の明かりが点けられ、医者が入ってきた。
「もう、起きていたのですか? 早起きですね」
そう言いながら、医者は俺の頭を撫でた。

「先生、止めて下さい。俺は子供じゃありません」
「ああ、すみません。泣いているように見えたので」
「泣いてなんかいません」
「そうですか? まぁそれはおいておいて、記録によれば赤ちゃんには、こうしてスキンシップをすることで、早く成長するのだそうです」
「俺は赤ちゃんでは、ありません」
「そうですね。でもその体はまだ生まれたばかりの、赤ちゃんと同じなんですよ。なにしろ蘇生したばかりですからね」
確かに先生の言うとおり、今朝も起きて顔でも洗おうかと思ったのだが、ベッドから上半身を起こすのが精一杯で、それ以上となると体が思うように動かず、また平衡感覚もおかしいらしくて、ベッドから降りるのが怖かったのだ。ナースコールでもしようと思ったところに、先生がやってきて、頭を撫でられたのだった。
「あの、先生? 俺の体、そんなに酷い状態だったんでしょうか?」
「聞きたいですか? でも言ったら多分、気絶しちゃうと思いますよ。女の子の場合はね。記録ではそういう例が多いようですから」
「俺は女の子ではないし、大抵のことは経験がありますから」
EVA活動で、仲間の死を経験することは珍しくも無い。俺の親父だって、宇宙塵(スペースデブリ)にやられて……あれは酷い有様だった。
それが思い出せたということは、少しずつ記憶も回復しつつあるのだろう。
だが、医者は思わせぶりな笑顔をしたかと思うと、急にまじめな顔になって言った。
「イヴさんは、精神的に大きなストレスを感じている筈です。医者としてはお聞かせするには躊躇われます。それに、そのことを知ったからといって、イヴさんの今後に何かしらの違いがあるということは無いでしょう? 知らないほうが良い事もあるというものです」
「その“イヴさん”って言うの、止めて下さい。俺にはちゃんと……」
言いかけて俺は重大なことに気がついた。俺の、俺の名前はなんだっけ……?
混乱してパニックになりかけた俺を、医者は慌てたように、ベッドに寝かしつけた。
「あまり急に過去を思い出そうとしないほうがいいですよ。まだ目覚めてから一日も経っていないことになります。今朝もまだ起きたばかりでしょう?」
「せ、先生……。俺……」
「気を落ち着けて、ゆっくり横になって。あなたは長い間眠り続けていたのです。記憶がかなり欠落しているか、思い出せなくなっているものと思われます。無理に思い出そうとすると、パニックを起こしますから。僕はずっとここにいます。安心して、何も思い出そうとせずに、今と、これからの話だけをしましょう」
先生はそう言いながら、乱れた診察衣の胸元を直して、毛布をかけられた。
「先生、俺は……」
「あなたは、イヴ。仮に私がそう名づけました。スペースコロニー“エデン”のイヴ。名前が気に入らなければ、後でゆっくり考えましょう。もちろん思い出した名前でもかまいません。今のあなたは、14歳から17歳位の少女の体です。残念なことに、あなたはオリジナルの体と、多分記憶の殆どを失っています。僕の希望としては、あなたは生まれ変わったのだと思って、新しい体と環境に、早く慣れていただきたいと思っています」
そういいながら、医者は俺の頭を優しく撫でながら、囁くように言った。
それを聞いているうちに、なんだかとても悲しくなって、俺は不覚にも泣き出してしまった。体の方もさることながら、感情もうまくコントロールできないようだった。
頭を撫でられ、囁くような口調で言葉を掛けられているうちに、俺はわんわんと泣き出し始め、そして泣き疲れて眠ってしまった。
*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*
「あ、起きましたか? お腹空いていませんか?」
ふと目覚めると、医者の顔が目の前にあって、そんなことを言った。
言われてみれば、少し空いたような……。
「じゃあ、体をゆっくりと起こして、これを口に含んでください」
背中を支えられながら、ベッドから体を起こすと、医者は持ってきたトレイの上の皿から、銀色の柄のスプーンを使って、クリーム色のものをすくった。
そして差し出されるままにスプーンを咥えると、柔らかくて少ししょっぱい味がした。
流動食のようなものだろうか?
「まだ、普通の食事は無理です。なにしろ、これはあなたの体にとっては、初めての食事なんですから。消化器官が慣れてきたら、普通の食事も摂れるようになります。それまではこれで我慢してください」
何度か口にスプーンを運ばれながら、俺はうなずいた。
「あの、もう自分でやりますから……」
まるで、赤ん坊みたいに餌付けされているのが、恥ずかしくなって俺はそういった。
「そうですか? でも、まだスプーンを使うのは難しいと思いますが、やってみます?」
俺は医者からトレイの上の皿に盛られた、柔らかいペースト状の食事と、スプーンを受け取った。
だが医者が言うように、スプーンの柄を弱弱しく握るのが精一杯で、皿の上のものを丁寧にすくうなんて事は、かなり難しかった。
「まだ、リハビリも始めていませんから、気にすることはありませんよ。そうだ、多分ストローなら使えるでしょう。とってきますから、ちょっと待っていてください」
俺はペースト食を膝の上に置いたまま、一人部屋に残された。
他人のいない部屋とは、本当にそっけなく冷たい感じがする。
一人暮らしにも、何も無い真っ暗闇の宇宙空間にだって慣れていたはずなのに、今この部屋に一人でいることが、不安で寂しくて仕方が無い。
視界が滲みかけてきたと思ったら、ドアが開き、先生が入ってきた。
「すみません。お待たせしました。在庫が無かったので、作っていたら時間が……寂しくて泣いちゃいました?」
「な、泣いてなんかいません! 先生、俺を赤ん坊扱いするのは止めて下さい」
「すみません。でも、先ほども言ったように、あなたの体は、まだ赤ちゃんと同じなんです。記録によれば、人間の記憶や感情は、脳からだけ生み出されているわけではなく、体全体もその一部を担っているそうです。だからあなたの扱いを赤ちゃんと同じ様にすることは、理にかなっています。恥ずかしがったりせずに、今は受け入れてください。今までもその方が、うまく行く事が多かったですから」
医者が言うとおり、相手は専門家だ。早く自分の思うとおりに動けるようになるには、言うとおりにするしかないだろう。
「先生は、今までにも俺みたいな患者を?」
「そうですね、何人も見てきました。でも、あなたはかなり良いほうです。目覚めてから直ぐに、こうして会話も出来るし、食事も出来る。覚醒してもほとんど無反応で、本当に意識があるのかすら、わからないようなケースも、何度もありましたから」
そういって、ものすごく寂しそうな顔をした。
「せ、先生。早くストローをください。お腹が空いちゃいました」
「あ、そうですね。ごめんなさい、どうぞ。コップも持ってきました、お皿からよりはその方が飲みやすいでしょう。お湯を少し足したほうがいいかな」
医者は俺の膝の上のトレイからペーストをとり、コップに移し換えると、湯を少し足してかき混ぜ、ストローを刺して手渡してくれた。
「コップ、しっかり持てますか?」
「大丈夫です。哺乳瓶にママのおっぱいなんてのじゃなくて、良かったです」
俺は努めて明るく言うと、医者も『あいにくと哺乳瓶も母乳も在庫が無くて』などと、笑いながら言った。
(3)-------------------------------------------------------
それからはリハビリの毎日だった。
寝返りを打つように、ごろごろ横に転がることから始めて、はいはい、つかまり立ち、その状態から伝い歩き、それから手を引いてもらってゆっくり歩き。
赤ん坊と同じ課程で体を動かすのを覚えて行った。
一人で歩けるようになる頃からは、今度は手を使って字を書いたり、ブロックでお城だとか車だとかを作ったりと、かなり恥ずかしかったが、幼稚園児のようなカリキュラムを、こなしていった。
なかなか思うように行かない時もあり、泣いたりかんしゃくを起こしたりして、感情のほうも幼稚園児みたいで恥ずかしかった。
だが、もっと恥ずかしく抵抗があったのは、言葉遣いのほうだった。
「以前はともかく、今は可愛らしい10代の女の子の体なんですから、それに見合った話し方のほうがいいです。絶対にそうしてください」
「で、でも、しかしですね」
「そんな調子では、社会復帰できませんよ? 社会に出て恥をかくのは、イヴさんです」
「いや、だけど男みたいな乱暴な言葉遣いの女だっているし、それに比べれば私は……」
自分を“私”と言うのは妥協した。実際、昔働いていた時だって、上司の前や公式な場所では、そう自分のことを言っていたのだから。
「ではそうですね、これからは女の子らしい言葉遣いや話し方が出来なくなるたびに、頭と口に電極をつけて、ショック療法をすることにしましょう」
「そ、それだけはカンベンしてください」
実際、その東洋医学を応用したとか言う、電気ショック療法をされたことがあった。
体を動かす練習を始めたばかりの頃、『記録によれば、この方法が一番早く体が動かせるようになることを理論上も、データも示しています』とか言われ、裸で診察台の上に乗せられ、全身に細い針を刺されたり、電極をつけられてビリビリとやられたのだ。
恥ずかしいやら痛いやらで、いっぺんで懲りた私は、どれだけ辛くて長くかかっても普通のリハビリがんばりますからと、泣いて頼んだのだった。
「では、ダメ押しでこれも見てもらいましょう」
先生はポータブルタイプの端末を取り出すと、ビデオファイルを再生して見せた。
画面には、あぐらを書いて鼻くそをほじくっている私の姿だとか、ベッドの上でビデオアーカイブを見ながら、汚い言葉遣いで囃し立てている姿とかが映っていた。
「せ、先生……、こ、こんなの一体、いつ録ったんですか?」
「あなたは大切な人ですから、24時間漏れなくケアしています。体が思うように動かせない人は、自宅の中でさえ不慮の事故で死んでしまう事も多いのです。記録ではそうです」
「は、外してください! 少なくとも部屋の中と、トイレとお風呂のカメラは外して!」
「今更な気もしますが……。ではこうしましょう、あなたが乱暴な言葉遣いをした時だけ、ビデオを残して、それ以外の時は自動的に消していくというのは?」
私は恐る恐る言った。
「信じて、いいんですか?」
「もちろん」
「本当に?」
「嘘ではありません」
「今までのも、全部消してくれますか?」
“今までの分全て”、これが一番重要なところだ。
なぜなら、体がうまく動かせないからと言う理由で、診察はもとより、トイレやお風呂で、部屋のうえのベッドの上でと、醜態を晒しまくっているのが全て記録されているのは、ほぼ間違いないからだ。
しかも先生は、『医者はこういうのは見慣れていますから』、と言って、恥ずかしがる私を遠慮なく裸にして、体を弄り回されているのだから。
「では、年頃の女の子らしい、可愛いキスをしてくれたら、考えてもいいですよ」
こ、こんのエロ医者め! とうとう本性現したか!
「ほ、ほっぺたでいいですか?」
背に腹は変えられない。そこまで体は動かせない。
「いいでしょう」
私は仕方なく、しゃがんだ先生のほっぺたにキスをした。
恥ずかしくて悔しくて、アタマがフットーしそうだ。
「大変よく出来ました」
「絶対に、約束守ってくださいよ」
あらためて念押しすると、先生はすまなそうな顔になっていった。
「すみません、約束を破らなくてはなりません。今のキスシーンだけは、残しておきましょう、記念すべき、イヴさんのファーストキスですから」
「せ、先生の嘘つきーっ!!」
もう頭にきた。私は逃げる先生を走って追い詰めた。リハビリルームは大して広くないし、入り口はひとつしかなく、それは私の背中の方向だ。
先生の白衣を掴んで押し倒し、馬乗りになって、殴りかかろうとしたら、先生は笑顔で、
「もう、リハビリは終わりですね。こんなに早く走れるようになったのなら、もう充分でしょう。おめでとう」
などと、言いやがった。
私は『くそ!』と心の中で呟いた。そんな風に笑顔で言われたら、殴りたくても殴れないではないか。
「あとは、定期的に体力の維持……そう、体育の授業が必要ですね。運動着も用意しなくては。ブルマとレオタード、どちらがいいですか?」
私はふくれっ面をして、先生の額をぺちん!と叩いた。
*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*
「ねぇ、先生ぇ。リハビリが終わったって言うことはぁ、自由に歩き回っても、いいってことでしょぉ?」
私は語尾を延ばす、少女っぽく媚びる話し方で言ってみた。
『危ないから』と言う理由で、私は部屋の隣のリハビリルームと、そこに繋がる廊下までしか出させてもらえなかった。
バスルームとトイレは部屋の中にあるし、食事は先生がどこかから持ってきてくれる。
診察は部屋か、リハビリルームにある診察台の上だ。
今までは歩くのも何とかといったところだったし、それで良かったけれど、まるで籠の中の鳥みたいに、動ける自由が無いのは少々辛い。
それに、この部屋はコロニーの外殻構造よりはかなり内側にあるようだった。
部屋の電子窓はいつもモニタカメラを通した星空か、チャンネルを切り替えたとしても環境ビデオしか表示できなかった。
同じフロアにある廊下とリハビリルームにも、窓はひとつも無い。
それに廊下の両端の扉はいつもロックされていて、私が開ける事は出来なかった。
「ここは病院です。どこへ行っても、あまり大差ありませんよ?」
「そうじゃなくてぇ、できれば端末に触ってぇ、外のことが知りたいのぉ」
「変に媚びるような話し方は不自然ですよ、イヴさん」
女の子らしい話し方をしろって言ったのは、オマエじゃないか!
「じゃ、先生。私は自分のことが知りたいんです。私が働いていた、コロニーのメンテナンス会社と連絡が取れれば、私の記録だって残っている筈ですよね?」
いままではリハビリのことで、精一杯だった。
それに先生は、部屋の外のことは一切話してくれないし、何よりも自分のことの記憶があまり思い出せないことが、不安で仕方が無かった。
そしてもっと不思議なことに、いままで入院中に先生以外の人間に会った事すらなかった。
女の子の体では、男性の医師に診てもらうには、恥ずかしいこともたくさんあるし、『できれば看護婦さんか、女医さんに』とお願いしても、無碍に断られていた。
『自分があなたの専任だから、責任持って全て面倒を見るから』、と言って。
確かに、私が少しでも困った時や、寂しくて不安になった時も、先生は文句ひとつ言わずに、直ぐに傍に来てくれたし、そういう意味での不都合は無かった。
だけどこれじゃ、世界に私たち二人だけしか、いないみたいだ……。
「今は……、とにかくダメです。あなたには……、多分ショックが大きすぎます」
「どうしてですか? 自分の事や外の様子を知ることが、そんなに私にとって辛いことなの? 私はそんなに長い間、死んでいたの?」
「そうですね。あなたを蘇生させるのに、ずいぶんと時間が掛かってしまいました」
「それはどういうことですか? 確か先生は、前にも私みたいな人間を蘇生させた事があるって、言っていましたよね?」
「ええ、あなたの前にも、私たちは何人も、……何十人も蘇生させた事があります」
“私たち”? やっぱり先生以外にも誰かいるんだ。
「その人たちはどうしたの? 退院できたの?」
「みなさん……、今は亡くなっています」
そういって先生は目を伏せた。
「私も……それほど長くは生きていられないって、言うことですか?」
「いえ! 違います。少なくとも医学上あなたの体は健康体です。不慮の事故や未知のウィルスに感染して、病気になったりとかしなければ、少なくとも命に別状があるようなことはありません。いえ、そんな事態には絶対にさせません!」
「それが私を、こんな牢獄みたいなところに、閉じ込めておく理由なの?」
「牢獄……ですか? 今の生活は、辛いですか?」
「そうね、私は事実に耐えられるだけの、強さを持ってはいないかもしれないけれど、それでも私は知りたいの。ここが何処で、私が本当は何者で、世界が今どうなっているのかを」
私は真剣に言った。
先生はじっと考える様に腕組みをしていたが、なかなかうんとは言ってくれなかった。
「少し、考えさせてください。それまでは、今の生活を続けてください」
先生はそっけなく言うと、リハビリルームを出て行ってしまった。
私も追いかけようとしたけれど、先生の足は速く、廊下の端の扉は、私が辿り着く目の前で、ロックされてしまった。
(4)-------------------------------------------------------
そんなことがあってから、先生はいつも難しい顔をして、まるで退屈な学校の授業をするように、私の社会復帰に向けての訓練を続けた。
私が年頃の娘が父親にねだるようにも、若い恋人同士がするように誘っても、先生は全く乗ってこなかった。
その代わりに、部屋に運んでくれた端末から、私が生きていた頃のビデオや書物の類を、データベースを通じてアクセスできるようにしてくれたが、私が知りたいのはそんな過去の他人のことじゃなくて、今現在の私たち以外の人のことだった。
「先生、教えてください。今、外の世界はどうなっているんですか? 一度死んでしまった私のことはもういいです。私は生まれ変わったのだと先生が言うのなら、過去の私はもう関係の無いことです。でも先生が私を社会復帰させたいと思っているのなら、今の世界がどうなっているのか、教えてください。私を過去の時間の籠の中から、解放してください」
先生はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように言った。
「このフロアのロックは、全て解除します。でもそれ以外の場所へは、決して行かないでください。約束できますか?」
「約束します」
「では、付いて来て下さい」
先生はそう言うと、私の手を引いて歩き始めた。
なんだか冷たい手……。そういえば、私はあまり先生の体温を意識したことが無かった。
でも、こんなに冷たかったっけ?
先生に手を引かれ、何時もロックされていて開かないドアの向こう側の通路に出た。
通路は照明が落とされていて薄暗く、ところどころについている非常灯が頼りなげに光っていた。
「足元に気をつけて。暗いですから。それと私の手を離さないように」
「痛いです、先生」
私は強く握られた手を上げた。
「すみません、力加減が、良く分からなくて」
そういえば先生と手を繋いで歩くなんて、初めてだったかも。リハビリ中の頃は、背中か肩に手を回して、体を支えられて歩くか、抱っこされて運ばれるかだったし、最近は先生の後について歩くだけだったから。
でも、それにしても硬くて冷たい手。誰かの手を握るなんてことが、しばらくなかったせいなのか、奇妙な感じがした。
通路の両側にはいくつも扉があったが、多分開けたところで何も無いだろう。廊下に面した窓にはカーテンすらなく、中をのぞいても真っ暗で何かがあるようにも見えなかった。
やがて通路の先に、ガラスで仕切られた明るい部屋が見えてきた。
辿り着いた場所は、緑で一杯の公園のような場所だった。
「ここは……?」
「オアシス区画です。向こうの方には畑もあります。木々も時期によって果物が生りますし、温室に入れば、また変わった植物が生えていますよ。でも昆虫や小動物たちには気をつけて。この区画には大型の動物はいませんが、それでも身の危険を感じると、刺したり噛み付いたりするのも、いますからね」
そういえば、私が昔生きていた頃にも、こんな場所があったような記憶がある。
大きな樹が茂り、見通せないほどの広さのあるこの場所は、所々で花が咲いていて、数は僅かだけれど、虫や小鳥も住んでいる、人工の自然環境。
アダムとイヴの住む、伝説の楽園……。
虚空に浮かぶスペースコロニーの、まさにそこは“エデンの園”だった。
「少しは気晴らしになると思います。ここへは気が向いたら、いつ来てもいいです。一定時間毎に昼と夜が繰り返しますが、夜は暗くて危ないので、部屋には戻っていたほうがいいでしょう」
「でも先生、違うんです。私が行きたいのは、こういうところではなくて……」
「前にも言いました。あなたには、知らない方がよい事のほうが多い。この小さな楽園の外は、悲しくて危険なことが一杯です。あなたを危険な目に合わせたり、悲しませたりしたくは無いのです」
「先生、私は……俺は、元は大人の男性です。少しですが、その頃のことも思い出してきています。だから大抵のことには驚かないし、悲しみにだって耐えることが出来ます。先生は少し、過保護に過ぎます。私は、そんなに弱い人間ではありません」
そう言うと、先生は悲しそうな顔になって言った。
「それでも……」
「“それでも”?」
「それでも、駄目なんです。判ってください」
そういうと、先生はくるりと背を向けて、出口へ走っていってしまった。
私は後を追いかけることが出来なかった。
エデンの園に、私はたった一人、残された。
*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*
夕食を持ってきた先生は、オアシス区画でのことは、何も無かったかのように明るい声で言った。
「今日はプレゼントがあります」
「プレゼント?」
「はい、これです。開けてみてください」
どこかのお店で、買ってきたものだろうか?
ラッピングの施された包みを開けると、中にはピンク色の可愛らしいワンピースが……。
「せ、先生! これ、女の子の服じゃないですか!」
「ええ、いつまでも診察着のままではかわいそうだと思ったので、探すのには苦労しましたが、きっと似合いますよ」
「いや、そうじゃなくて……」
確かに、この体には似合うかもしれない。
だから、そうじゃなくて……。
「男物は無かったんですか?」
「なぜです? 」
そうまじめな顔で言われても困るが、この微妙な私の気持ちもわかって欲しい。
「せめて、男女兼用のとかは、無かったんですか?」
「気に入りませんか?」
そう落ち込んだ表情をしないでください。私が悪者みたいじゃないですか。
「申し訳ないのですが、下着のほうは……あいにくと今は男性用のものしか用意できなくて……」
と、別の包みを差し出した。
いや、逆にそっちはそれで、ちょっと困るかも?
パンツはともかく、その……胸のほうが、最近不本意にも成長しているようで、歩くと揺れて落ち着かない上に、診察着に先っちょが擦れたりして、痛いのだ。
恥ずかしくて、とてもそんなことは言えないが、できればこれはなんとかしたかった。あまりかわいく無いやつで。
「プレゼントはありがたく受け取っておきますが、次は自分で選びたいなぁ」
私は暗に、服を調達してきたであろうお店に連れて行けという意味のことを言ったが、先生には通じなかった様だった。
「今日はもう遅いですが、明日はそれを着て、一緒にオアシス区画へ行きましょう」
「二人でですか?」
「ええ、いけませんか?」
「そんなことは無いですが……。先生、他のお仕事はどうなさっているんですか? ずっと私に、かかりっきりのような気がしますけど」
「私はあなたの専任医師ですからね。他の患者は診ていません」
「はぁ、そうですか……」
だからこんなにも、過保護なのだろうか?
体力もだいぶ回復してきたし、日常生活にもほぼ不自由しない。たまには放って置いてくれてもいいような気もするけど。
その晩、もって来てくれたワンピースに袖を通してみたが、どうにも違和感が拭えない。 体にぴったりとフィットして、ってこれ、体の線が出すぎじゃないのか?

下着無しでの診察着の、ゆったりとした着心地も頼りないものがあったが、これはこれで逆に恥ずかしい。胸の部分がある程度抑えられるのはいいが……浮き出た先端を見て、これはタオルか何かを巻いてから着た方がいいと思った。
だが、本人的意識では男の癖に女装をしている感覚で、しかし鏡を見るとこれはこれで似合っているだけに、余計にたちが悪い。
そのうち化粧品まで用意してきたりしないだろうな、あの先生は……。
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「♪俺ら宇宙~の、俺ら~宇宙~のぉ、俺ら宇宙のメンテ屋さんっ♪」
俺は鼻歌交じりに、EVA作業をしていた。
ここはL4(第4ラグランジュポイント)に浮かぶ、スペースコロニー、“エデン”。
俺はその“エデン”のメンテナンス要員として働いている、しがない技術屋だ。
行きたくは無かったが、大学に通ってEVA技術員の資格を取り、親の仕事を引き継いで、いっぱしの技術屋稼業なんかをしている。
いつ太陽フレア爆発や、宇宙塵との衝突に襲われるかも知れない危険なコロニーでのEVA作業の殆どが、今ではメンテナンスロボットが担当しているが、微妙な調整だとか複雑に入り組んだ場所での作業となると、まだまだ生身の人間の手が必要だった。
だが俺にとっては、もうすっかり慣れた日常の作業のひとつに過ぎない。
それにこうして、“エデン”の外殻から出て、バイザー越しとはいえ、さえぎるものの何一つ無い、星々の瞬きを見るのも悪くない。
「……って、宇宙じゃ星は瞬いたりはしない。何だあれは?」
俺はそう呟いて、明滅する光点に向かおうとしたそのとき、突然視界が真っ暗になって、何者かに襲われた。
俺は無線のプレトークスイッチを押して、助けを呼ぼうとした。
だが雑音ばかりがなり立てるレシーバーからは、いつものとぼけた調子のコントローラーからの応答は無く、俺を襲ってきた何かと揉みあっているうちに背中に激痛を感じ、そのまま気を失ってしまった。

「ここは……、どこだ?」
「お目覚めですか? イヴさん」
ぼやけた視界がだんだんとはっきりとしていき、目の前に白衣を着た男が話しかけていることがわかった。
「ここは、どこですか?」
確か、俺は何者かに襲われて……どうやら耳までおかしいらしい。
自分の声がずいぶんと甲高く、別人のようだ。
それに体中がだるくて……、なんだかずいぶんと長い間眠っていたような感じがする。
「ここは、病院のベッドの上ですよ。僕はあなたの主治医です」
「主治医?」
「自分が誰だか、判りますか? イヴさん」
「俺は……イヴなんて名前じゃない。俺はショー……あれ、なんだっけ?」
「無理に思い出そうとしなくていいですよ。あなたは長い間眠ったままだったのですから」
「そうだ! 俺はEVA作業中に、何者かに襲われて……」
「どうやら、ある程度の記憶は残っているようですね。これなら希望が持てます」
「希望?」
俺は医者の言葉に不自然さを感じながらも、少しずつ戻りつつある体の感覚を頼りに、体を起こそうとした。
「あ、まだ無理をしてはいけません」
「いや、手伝ってくれ。体を起こしたいんだ」
医者は俺の背中を支えて、上半身を起こすのを手伝ってくれた。
だがその時、俺は自分の体がまったく違うものになっていることに、ようやく気づいた。
「な、なんだこれは、俺の体……、胸が膨らんで、それにこの手! どうなっているんだ!」
「あなたの体は、宇宙線に長い間晒されていて損傷が激しかったので、あなたの遺伝情報を元に、肉体を再生しました」
「肉体の“再生”だって?」
「ええ、でも脳だけは元のままなので、体に違和感があるかもしれませんが、リハビリをすれば、直ぐに慣れますよ」
「直ぐに慣れるって……、この体、まるで女みたいな……」
「すみません。男性の体で再生することが出来なかったので、体は女性体です」
「な、なんだって! それじゃこの、胸が膨らんでるとか、声が甲高いのも……」
そう言いかけて、俺は入院患者が着る様な服のズボンの部分に手を突っ込んだ。
「な、無い! 俺のジュニアが……!」
本当ならそこにある筈の、握りなれた男のシンボルがなく、代わりに股間に刻まれた肉の割れ目が……。
「あ、あのう……、僕もいるんですが」
俺の背中を支えたままの医者が、顔をそらしながら言った。
それを聞いて初めて俺は、自分がかなりキワドイことをしていることに気がついた。
少なくとも俺のこの体は女性のもので、目の前にいるのは男性で……。
俺は急に恥ずかしくなって、服の中から手を抜いた。
「あ、いや、見ていませんよ。いえ、診察のときに全部見ていますが……いや、今のは失言です。忘れてください」
医者は弁解したが、医者ならば患者の体を診るのはそれが仕事だから、非難されるいわれは無い。それは頭ではわかっているんだが、自分の知らない自分を、しかも女の体になってしまっている自分の体を見られるのは、なんだかとても恥ずかしかった。
「元には、戻せないんですか? その、男の体に」
「すみません。残念ながら、あなたの体がどうであったか、DNA解析だけでは判らないんです。それに、ここの施設では、男性の体を作るのは難しくて……。それで我慢してください」
「我慢してくださいって……」
すまなそうに言う医者に、俺はそれ以上強く言えなかった。
それに体を再生したとか言っていたが、それほどの損傷を受けた体ならば、俺はたぶんその時に一度死んでしまったのだろう。
それをここまでにしてくれて、しかも俺は意識を取り戻した。
彼はいわば、俺の命の恩人といえる。
「助けてくださったことには、感謝します。俺は、やっぱり一度死んだんですよね?」
「ええ、あなたを蘇生できたのは、かなり奇跡に近いです。でも良かった。生き返ってくれて」
「そうですか、重ねて御礼を言います、ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた。
「いえ、医者として当然のことです。慣れない体では色々と不都合もあるでしょうが、今度こそきちんとサポートしますから、がんばってください」
『今度こそ……』? 医者の言葉にちょっと俺は引っかかったが、それよりも次第にはっきりとしていく五感を通じて、文字通り生まれ変わった新しい世界の感覚に、俺は戸惑っていた。
(2)-------------------------------------------------------
昼とも夜ともつかない時刻。薄暗い部屋の中で、目が覚めた。
昨日の出来事が、まだよく頭に入っていない。
俺は一度死んで、女の体で生き返った。
鏡で確かめてみたが、記憶にある自分の姿とは似ても似つかない、少女の姿だった。
これが自分の姿などとは、到底信じられなかった。
記憶もまだ不完全で、自分が何者であったのかも、まだあまりよく思い出せない。
体もまだ思うようには動かせない。
昨日何度も練習して、なんとかベッドから上半身を起こすことは出来るようになった。
だが起き上がったところで、何からすればいいのかよくわからない。
自分は一体誰なのか? どうしてこんなところにいるのか?
これからいったい、何をすればいいのか……
途方にくれていると、部屋の明かりが点けられ、医者が入ってきた。
「もう、起きていたのですか? 早起きですね」
そう言いながら、医者は俺の頭を撫でた。

「先生、止めて下さい。俺は子供じゃありません」
「ああ、すみません。泣いているように見えたので」
「泣いてなんかいません」
「そうですか? まぁそれはおいておいて、記録によれば赤ちゃんには、こうしてスキンシップをすることで、早く成長するのだそうです」
「俺は赤ちゃんでは、ありません」
「そうですね。でもその体はまだ生まれたばかりの、赤ちゃんと同じなんですよ。なにしろ蘇生したばかりですからね」
確かに先生の言うとおり、今朝も起きて顔でも洗おうかと思ったのだが、ベッドから上半身を起こすのが精一杯で、それ以上となると体が思うように動かず、また平衡感覚もおかしいらしくて、ベッドから降りるのが怖かったのだ。ナースコールでもしようと思ったところに、先生がやってきて、頭を撫でられたのだった。
「あの、先生? 俺の体、そんなに酷い状態だったんでしょうか?」
「聞きたいですか? でも言ったら多分、気絶しちゃうと思いますよ。女の子の場合はね。記録ではそういう例が多いようですから」
「俺は女の子ではないし、大抵のことは経験がありますから」
EVA活動で、仲間の死を経験することは珍しくも無い。俺の親父だって、宇宙塵(スペースデブリ)にやられて……あれは酷い有様だった。
それが思い出せたということは、少しずつ記憶も回復しつつあるのだろう。
だが、医者は思わせぶりな笑顔をしたかと思うと、急にまじめな顔になって言った。
「イヴさんは、精神的に大きなストレスを感じている筈です。医者としてはお聞かせするには躊躇われます。それに、そのことを知ったからといって、イヴさんの今後に何かしらの違いがあるということは無いでしょう? 知らないほうが良い事もあるというものです」
「その“イヴさん”って言うの、止めて下さい。俺にはちゃんと……」
言いかけて俺は重大なことに気がついた。俺の、俺の名前はなんだっけ……?
混乱してパニックになりかけた俺を、医者は慌てたように、ベッドに寝かしつけた。
「あまり急に過去を思い出そうとしないほうがいいですよ。まだ目覚めてから一日も経っていないことになります。今朝もまだ起きたばかりでしょう?」
「せ、先生……。俺……」
「気を落ち着けて、ゆっくり横になって。あなたは長い間眠り続けていたのです。記憶がかなり欠落しているか、思い出せなくなっているものと思われます。無理に思い出そうとすると、パニックを起こしますから。僕はずっとここにいます。安心して、何も思い出そうとせずに、今と、これからの話だけをしましょう」
先生はそう言いながら、乱れた診察衣の胸元を直して、毛布をかけられた。
「先生、俺は……」
「あなたは、イヴ。仮に私がそう名づけました。スペースコロニー“エデン”のイヴ。名前が気に入らなければ、後でゆっくり考えましょう。もちろん思い出した名前でもかまいません。今のあなたは、14歳から17歳位の少女の体です。残念なことに、あなたはオリジナルの体と、多分記憶の殆どを失っています。僕の希望としては、あなたは生まれ変わったのだと思って、新しい体と環境に、早く慣れていただきたいと思っています」
そういいながら、医者は俺の頭を優しく撫でながら、囁くように言った。
それを聞いているうちに、なんだかとても悲しくなって、俺は不覚にも泣き出してしまった。体の方もさることながら、感情もうまくコントロールできないようだった。
頭を撫でられ、囁くような口調で言葉を掛けられているうちに、俺はわんわんと泣き出し始め、そして泣き疲れて眠ってしまった。
「あ、起きましたか? お腹空いていませんか?」
ふと目覚めると、医者の顔が目の前にあって、そんなことを言った。
言われてみれば、少し空いたような……。
「じゃあ、体をゆっくりと起こして、これを口に含んでください」
背中を支えられながら、ベッドから体を起こすと、医者は持ってきたトレイの上の皿から、銀色の柄のスプーンを使って、クリーム色のものをすくった。
そして差し出されるままにスプーンを咥えると、柔らかくて少ししょっぱい味がした。
流動食のようなものだろうか?
「まだ、普通の食事は無理です。なにしろ、これはあなたの体にとっては、初めての食事なんですから。消化器官が慣れてきたら、普通の食事も摂れるようになります。それまではこれで我慢してください」
何度か口にスプーンを運ばれながら、俺はうなずいた。
「あの、もう自分でやりますから……」
まるで、赤ん坊みたいに餌付けされているのが、恥ずかしくなって俺はそういった。
「そうですか? でも、まだスプーンを使うのは難しいと思いますが、やってみます?」
俺は医者からトレイの上の皿に盛られた、柔らかいペースト状の食事と、スプーンを受け取った。
だが医者が言うように、スプーンの柄を弱弱しく握るのが精一杯で、皿の上のものを丁寧にすくうなんて事は、かなり難しかった。
「まだ、リハビリも始めていませんから、気にすることはありませんよ。そうだ、多分ストローなら使えるでしょう。とってきますから、ちょっと待っていてください」
俺はペースト食を膝の上に置いたまま、一人部屋に残された。
他人のいない部屋とは、本当にそっけなく冷たい感じがする。
一人暮らしにも、何も無い真っ暗闇の宇宙空間にだって慣れていたはずなのに、今この部屋に一人でいることが、不安で寂しくて仕方が無い。
視界が滲みかけてきたと思ったら、ドアが開き、先生が入ってきた。
「すみません。お待たせしました。在庫が無かったので、作っていたら時間が……寂しくて泣いちゃいました?」
「な、泣いてなんかいません! 先生、俺を赤ん坊扱いするのは止めて下さい」
「すみません。でも、先ほども言ったように、あなたの体は、まだ赤ちゃんと同じなんです。記録によれば、人間の記憶や感情は、脳からだけ生み出されているわけではなく、体全体もその一部を担っているそうです。だからあなたの扱いを赤ちゃんと同じ様にすることは、理にかなっています。恥ずかしがったりせずに、今は受け入れてください。今までもその方が、うまく行く事が多かったですから」
医者が言うとおり、相手は専門家だ。早く自分の思うとおりに動けるようになるには、言うとおりにするしかないだろう。
「先生は、今までにも俺みたいな患者を?」
「そうですね、何人も見てきました。でも、あなたはかなり良いほうです。目覚めてから直ぐに、こうして会話も出来るし、食事も出来る。覚醒してもほとんど無反応で、本当に意識があるのかすら、わからないようなケースも、何度もありましたから」
そういって、ものすごく寂しそうな顔をした。
「せ、先生。早くストローをください。お腹が空いちゃいました」
「あ、そうですね。ごめんなさい、どうぞ。コップも持ってきました、お皿からよりはその方が飲みやすいでしょう。お湯を少し足したほうがいいかな」
医者は俺の膝の上のトレイからペーストをとり、コップに移し換えると、湯を少し足してかき混ぜ、ストローを刺して手渡してくれた。
「コップ、しっかり持てますか?」
「大丈夫です。哺乳瓶にママのおっぱいなんてのじゃなくて、良かったです」
俺は努めて明るく言うと、医者も『あいにくと哺乳瓶も母乳も在庫が無くて』などと、笑いながら言った。
(3)-------------------------------------------------------
それからはリハビリの毎日だった。
寝返りを打つように、ごろごろ横に転がることから始めて、はいはい、つかまり立ち、その状態から伝い歩き、それから手を引いてもらってゆっくり歩き。
赤ん坊と同じ課程で体を動かすのを覚えて行った。
一人で歩けるようになる頃からは、今度は手を使って字を書いたり、ブロックでお城だとか車だとかを作ったりと、かなり恥ずかしかったが、幼稚園児のようなカリキュラムを、こなしていった。
なかなか思うように行かない時もあり、泣いたりかんしゃくを起こしたりして、感情のほうも幼稚園児みたいで恥ずかしかった。
だが、もっと恥ずかしく抵抗があったのは、言葉遣いのほうだった。
「以前はともかく、今は可愛らしい10代の女の子の体なんですから、それに見合った話し方のほうがいいです。絶対にそうしてください」
「で、でも、しかしですね」
「そんな調子では、社会復帰できませんよ? 社会に出て恥をかくのは、イヴさんです」
「いや、だけど男みたいな乱暴な言葉遣いの女だっているし、それに比べれば私は……」
自分を“私”と言うのは妥協した。実際、昔働いていた時だって、上司の前や公式な場所では、そう自分のことを言っていたのだから。
「ではそうですね、これからは女の子らしい言葉遣いや話し方が出来なくなるたびに、頭と口に電極をつけて、ショック療法をすることにしましょう」
「そ、それだけはカンベンしてください」
実際、その東洋医学を応用したとか言う、電気ショック療法をされたことがあった。
体を動かす練習を始めたばかりの頃、『記録によれば、この方法が一番早く体が動かせるようになることを理論上も、データも示しています』とか言われ、裸で診察台の上に乗せられ、全身に細い針を刺されたり、電極をつけられてビリビリとやられたのだ。
恥ずかしいやら痛いやらで、いっぺんで懲りた私は、どれだけ辛くて長くかかっても普通のリハビリがんばりますからと、泣いて頼んだのだった。
「では、ダメ押しでこれも見てもらいましょう」
先生はポータブルタイプの端末を取り出すと、ビデオファイルを再生して見せた。
画面には、あぐらを書いて鼻くそをほじくっている私の姿だとか、ベッドの上でビデオアーカイブを見ながら、汚い言葉遣いで囃し立てている姿とかが映っていた。
「せ、先生……、こ、こんなの一体、いつ録ったんですか?」
「あなたは大切な人ですから、24時間漏れなくケアしています。体が思うように動かせない人は、自宅の中でさえ不慮の事故で死んでしまう事も多いのです。記録ではそうです」
「は、外してください! 少なくとも部屋の中と、トイレとお風呂のカメラは外して!」
「今更な気もしますが……。ではこうしましょう、あなたが乱暴な言葉遣いをした時だけ、ビデオを残して、それ以外の時は自動的に消していくというのは?」
私は恐る恐る言った。
「信じて、いいんですか?」
「もちろん」
「本当に?」
「嘘ではありません」
「今までのも、全部消してくれますか?」
“今までの分全て”、これが一番重要なところだ。
なぜなら、体がうまく動かせないからと言う理由で、診察はもとより、トイレやお風呂で、部屋のうえのベッドの上でと、醜態を晒しまくっているのが全て記録されているのは、ほぼ間違いないからだ。
しかも先生は、『医者はこういうのは見慣れていますから』、と言って、恥ずかしがる私を遠慮なく裸にして、体を弄り回されているのだから。
「では、年頃の女の子らしい、可愛いキスをしてくれたら、考えてもいいですよ」
こ、こんのエロ医者め! とうとう本性現したか!
「ほ、ほっぺたでいいですか?」
背に腹は変えられない。そこまで体は動かせない。
「いいでしょう」
私は仕方なく、しゃがんだ先生のほっぺたにキスをした。
恥ずかしくて悔しくて、アタマがフットーしそうだ。
「大変よく出来ました」
「絶対に、約束守ってくださいよ」
あらためて念押しすると、先生はすまなそうな顔になっていった。
「すみません、約束を破らなくてはなりません。今のキスシーンだけは、残しておきましょう、記念すべき、イヴさんのファーストキスですから」
「せ、先生の嘘つきーっ!!」
もう頭にきた。私は逃げる先生を走って追い詰めた。リハビリルームは大して広くないし、入り口はひとつしかなく、それは私の背中の方向だ。
先生の白衣を掴んで押し倒し、馬乗りになって、殴りかかろうとしたら、先生は笑顔で、
「もう、リハビリは終わりですね。こんなに早く走れるようになったのなら、もう充分でしょう。おめでとう」
などと、言いやがった。
私は『くそ!』と心の中で呟いた。そんな風に笑顔で言われたら、殴りたくても殴れないではないか。
「あとは、定期的に体力の維持……そう、体育の授業が必要ですね。運動着も用意しなくては。ブルマとレオタード、どちらがいいですか?」
私はふくれっ面をして、先生の額をぺちん!と叩いた。
「ねぇ、先生ぇ。リハビリが終わったって言うことはぁ、自由に歩き回っても、いいってことでしょぉ?」
私は語尾を延ばす、少女っぽく媚びる話し方で言ってみた。
『危ないから』と言う理由で、私は部屋の隣のリハビリルームと、そこに繋がる廊下までしか出させてもらえなかった。
バスルームとトイレは部屋の中にあるし、食事は先生がどこかから持ってきてくれる。
診察は部屋か、リハビリルームにある診察台の上だ。
今までは歩くのも何とかといったところだったし、それで良かったけれど、まるで籠の中の鳥みたいに、動ける自由が無いのは少々辛い。
それに、この部屋はコロニーの外殻構造よりはかなり内側にあるようだった。
部屋の電子窓はいつもモニタカメラを通した星空か、チャンネルを切り替えたとしても環境ビデオしか表示できなかった。
同じフロアにある廊下とリハビリルームにも、窓はひとつも無い。
それに廊下の両端の扉はいつもロックされていて、私が開ける事は出来なかった。
「ここは病院です。どこへ行っても、あまり大差ありませんよ?」
「そうじゃなくてぇ、できれば端末に触ってぇ、外のことが知りたいのぉ」
「変に媚びるような話し方は不自然ですよ、イヴさん」
女の子らしい話し方をしろって言ったのは、オマエじゃないか!
「じゃ、先生。私は自分のことが知りたいんです。私が働いていた、コロニーのメンテナンス会社と連絡が取れれば、私の記録だって残っている筈ですよね?」
いままではリハビリのことで、精一杯だった。
それに先生は、部屋の外のことは一切話してくれないし、何よりも自分のことの記憶があまり思い出せないことが、不安で仕方が無かった。
そしてもっと不思議なことに、いままで入院中に先生以外の人間に会った事すらなかった。
女の子の体では、男性の医師に診てもらうには、恥ずかしいこともたくさんあるし、『できれば看護婦さんか、女医さんに』とお願いしても、無碍に断られていた。
『自分があなたの専任だから、責任持って全て面倒を見るから』、と言って。
確かに、私が少しでも困った時や、寂しくて不安になった時も、先生は文句ひとつ言わずに、直ぐに傍に来てくれたし、そういう意味での不都合は無かった。
だけどこれじゃ、世界に私たち二人だけしか、いないみたいだ……。
「今は……、とにかくダメです。あなたには……、多分ショックが大きすぎます」
「どうしてですか? 自分の事や外の様子を知ることが、そんなに私にとって辛いことなの? 私はそんなに長い間、死んでいたの?」
「そうですね。あなたを蘇生させるのに、ずいぶんと時間が掛かってしまいました」
「それはどういうことですか? 確か先生は、前にも私みたいな人間を蘇生させた事があるって、言っていましたよね?」
「ええ、あなたの前にも、私たちは何人も、……何十人も蘇生させた事があります」
“私たち”? やっぱり先生以外にも誰かいるんだ。
「その人たちはどうしたの? 退院できたの?」
「みなさん……、今は亡くなっています」
そういって先生は目を伏せた。
「私も……それほど長くは生きていられないって、言うことですか?」
「いえ! 違います。少なくとも医学上あなたの体は健康体です。不慮の事故や未知のウィルスに感染して、病気になったりとかしなければ、少なくとも命に別状があるようなことはありません。いえ、そんな事態には絶対にさせません!」
「それが私を、こんな牢獄みたいなところに、閉じ込めておく理由なの?」
「牢獄……ですか? 今の生活は、辛いですか?」
「そうね、私は事実に耐えられるだけの、強さを持ってはいないかもしれないけれど、それでも私は知りたいの。ここが何処で、私が本当は何者で、世界が今どうなっているのかを」
私は真剣に言った。
先生はじっと考える様に腕組みをしていたが、なかなかうんとは言ってくれなかった。
「少し、考えさせてください。それまでは、今の生活を続けてください」
先生はそっけなく言うと、リハビリルームを出て行ってしまった。
私も追いかけようとしたけれど、先生の足は速く、廊下の端の扉は、私が辿り着く目の前で、ロックされてしまった。
(4)-------------------------------------------------------
そんなことがあってから、先生はいつも難しい顔をして、まるで退屈な学校の授業をするように、私の社会復帰に向けての訓練を続けた。
私が年頃の娘が父親にねだるようにも、若い恋人同士がするように誘っても、先生は全く乗ってこなかった。
その代わりに、部屋に運んでくれた端末から、私が生きていた頃のビデオや書物の類を、データベースを通じてアクセスできるようにしてくれたが、私が知りたいのはそんな過去の他人のことじゃなくて、今現在の私たち以外の人のことだった。
「先生、教えてください。今、外の世界はどうなっているんですか? 一度死んでしまった私のことはもういいです。私は生まれ変わったのだと先生が言うのなら、過去の私はもう関係の無いことです。でも先生が私を社会復帰させたいと思っているのなら、今の世界がどうなっているのか、教えてください。私を過去の時間の籠の中から、解放してください」
先生はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように言った。
「このフロアのロックは、全て解除します。でもそれ以外の場所へは、決して行かないでください。約束できますか?」
「約束します」
「では、付いて来て下さい」
先生はそう言うと、私の手を引いて歩き始めた。
なんだか冷たい手……。そういえば、私はあまり先生の体温を意識したことが無かった。
でも、こんなに冷たかったっけ?
先生に手を引かれ、何時もロックされていて開かないドアの向こう側の通路に出た。
通路は照明が落とされていて薄暗く、ところどころについている非常灯が頼りなげに光っていた。
「足元に気をつけて。暗いですから。それと私の手を離さないように」
「痛いです、先生」
私は強く握られた手を上げた。
「すみません、力加減が、良く分からなくて」
そういえば先生と手を繋いで歩くなんて、初めてだったかも。リハビリ中の頃は、背中か肩に手を回して、体を支えられて歩くか、抱っこされて運ばれるかだったし、最近は先生の後について歩くだけだったから。
でも、それにしても硬くて冷たい手。誰かの手を握るなんてことが、しばらくなかったせいなのか、奇妙な感じがした。
通路の両側にはいくつも扉があったが、多分開けたところで何も無いだろう。廊下に面した窓にはカーテンすらなく、中をのぞいても真っ暗で何かがあるようにも見えなかった。
やがて通路の先に、ガラスで仕切られた明るい部屋が見えてきた。
辿り着いた場所は、緑で一杯の公園のような場所だった。
「ここは……?」
「オアシス区画です。向こうの方には畑もあります。木々も時期によって果物が生りますし、温室に入れば、また変わった植物が生えていますよ。でも昆虫や小動物たちには気をつけて。この区画には大型の動物はいませんが、それでも身の危険を感じると、刺したり噛み付いたりするのも、いますからね」
そういえば、私が昔生きていた頃にも、こんな場所があったような記憶がある。
大きな樹が茂り、見通せないほどの広さのあるこの場所は、所々で花が咲いていて、数は僅かだけれど、虫や小鳥も住んでいる、人工の自然環境。
アダムとイヴの住む、伝説の楽園……。
虚空に浮かぶスペースコロニーの、まさにそこは“エデンの園”だった。
「少しは気晴らしになると思います。ここへは気が向いたら、いつ来てもいいです。一定時間毎に昼と夜が繰り返しますが、夜は暗くて危ないので、部屋には戻っていたほうがいいでしょう」
「でも先生、違うんです。私が行きたいのは、こういうところではなくて……」
「前にも言いました。あなたには、知らない方がよい事のほうが多い。この小さな楽園の外は、悲しくて危険なことが一杯です。あなたを危険な目に合わせたり、悲しませたりしたくは無いのです」
「先生、私は……俺は、元は大人の男性です。少しですが、その頃のことも思い出してきています。だから大抵のことには驚かないし、悲しみにだって耐えることが出来ます。先生は少し、過保護に過ぎます。私は、そんなに弱い人間ではありません」
そう言うと、先生は悲しそうな顔になって言った。
「それでも……」
「“それでも”?」
「それでも、駄目なんです。判ってください」
そういうと、先生はくるりと背を向けて、出口へ走っていってしまった。
私は後を追いかけることが出来なかった。
エデンの園に、私はたった一人、残された。
夕食を持ってきた先生は、オアシス区画でのことは、何も無かったかのように明るい声で言った。
「今日はプレゼントがあります」
「プレゼント?」
「はい、これです。開けてみてください」
どこかのお店で、買ってきたものだろうか?
ラッピングの施された包みを開けると、中にはピンク色の可愛らしいワンピースが……。
「せ、先生! これ、女の子の服じゃないですか!」
「ええ、いつまでも診察着のままではかわいそうだと思ったので、探すのには苦労しましたが、きっと似合いますよ」
「いや、そうじゃなくて……」
確かに、この体には似合うかもしれない。
だから、そうじゃなくて……。
「男物は無かったんですか?」
「なぜです? 」
そうまじめな顔で言われても困るが、この微妙な私の気持ちもわかって欲しい。
「せめて、男女兼用のとかは、無かったんですか?」
「気に入りませんか?」
そう落ち込んだ表情をしないでください。私が悪者みたいじゃないですか。
「申し訳ないのですが、下着のほうは……あいにくと今は男性用のものしか用意できなくて……」
と、別の包みを差し出した。
いや、逆にそっちはそれで、ちょっと困るかも?
パンツはともかく、その……胸のほうが、最近不本意にも成長しているようで、歩くと揺れて落ち着かない上に、診察着に先っちょが擦れたりして、痛いのだ。
恥ずかしくて、とてもそんなことは言えないが、できればこれはなんとかしたかった。あまりかわいく無いやつで。
「プレゼントはありがたく受け取っておきますが、次は自分で選びたいなぁ」
私は暗に、服を調達してきたであろうお店に連れて行けという意味のことを言ったが、先生には通じなかった様だった。
「今日はもう遅いですが、明日はそれを着て、一緒にオアシス区画へ行きましょう」
「二人でですか?」
「ええ、いけませんか?」
「そんなことは無いですが……。先生、他のお仕事はどうなさっているんですか? ずっと私に、かかりっきりのような気がしますけど」
「私はあなたの専任医師ですからね。他の患者は診ていません」
「はぁ、そうですか……」
だからこんなにも、過保護なのだろうか?
体力もだいぶ回復してきたし、日常生活にもほぼ不自由しない。たまには放って置いてくれてもいいような気もするけど。
その晩、もって来てくれたワンピースに袖を通してみたが、どうにも違和感が拭えない。 体にぴったりとフィットして、ってこれ、体の線が出すぎじゃないのか?

下着無しでの診察着の、ゆったりとした着心地も頼りないものがあったが、これはこれで逆に恥ずかしい。胸の部分がある程度抑えられるのはいいが……浮き出た先端を見て、これはタオルか何かを巻いてから着た方がいいと思った。
だが、本人的意識では男の癖に女装をしている感覚で、しかし鏡を見るとこれはこれで似合っているだけに、余計にたちが悪い。
そのうち化粧品まで用意してきたりしないだろうな、あの先生は……。
コメント
久々にありすさんの作品が読めて、嬉しいです。続きを楽しみにしています。
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全21回の予定ですが、イラストが一部未完なので、途中休載あるかもです(^_^;)。
>とくめいさん
ありがとうございます。待っていてくれる人がいるってだけで、次作を書く原動力になります。